6歳で体験した釜石艦砲射撃 「宝物の日々」と「恐怖」抱き帰る古里

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1回目の艦砲射撃があった7月14日に釜石を訪れた佐々木君雄さん。80年前は奥にある神社近くの茂みに逃げ込んだ記憶がある=岩手県釜石市で2025年7月14日、奥田伸一撮影 拡大
1回目の艦砲射撃があった7月14日に釜石を訪れた佐々木君雄さん。80年前は奥にある神社近くの茂みに逃げ込んだ記憶がある=岩手県釜石市で2025年7月14日、奥田伸一撮影

 盛岡市の佐々木君雄さん(86)は毎年7月14日に帰郷する。東に80キロ離れた海沿いの町、岩手県釜石市。子どものころの宝物のような日々を慈しむ気持ちと、胸に刻まれた強烈な恐怖心を抱きながら、今夏も佐々木さんは古里に向かった。

 「ドーン」という爆音と共に土煙が上がった。バサバサと音を立てて建物などの破片が降ってきた――。

 釜石市東部の神社近くを訪れた佐々木さんは、80年前の出来事を昨日のことのように語った。

782人が犠牲になった艦砲射撃

艦砲射撃で焼け野原になった岩手県釜石市の市街地。奥には製鉄所が見える=釜石市郷土資料館提供 拡大
艦砲射撃で焼け野原になった岩手県釜石市の市街地。奥には製鉄所が見える=釜石市郷土資料館提供

 太平洋戦争末期の1945年7月14日の昼過ぎ、6歳だった佐々木さんは近所の人と一緒にこの神社の近くの茂みに隠れてじっと息を潜めていた。まだ幼かったが、身の危険が迫っていることを自覚していた。

 「自分の呼吸音が遠くの敵に聞こえるはずはないのに、気付かれまいと必死に息を止めようとした」。恐怖のあまり緊張は極限に達し、両腕の血の気が引いた。

 佐々木さんが聞いた爆音や土煙は、米軍の戦艦による「艦砲(かんぽう)射撃」の砲弾によるものだ。艦砲射撃とは、沖合の艦船から陸に向けて砲弾を撃ち込む攻撃で、沖縄や本土の太平洋岸の工業都市が標的とされた。東北で唯一の製鉄所があった釜石は2度の艦砲射撃を受け、判明分だけで捕虜を含む782人が犠牲になった。地元では「艦砲」と呼ばれている。

 1回目の7月14日は、正午過ぎから午後2時20分ごろまで続いた。砲弾2565発が撃ち込まれ、中心部の製鉄所や釜石駅周辺が焼け野原となった。

 佐々木さんは製鉄所から西に1・5キロ離れた社宅に母と住んでいた。母は無事だったが、どうして助かったのか分からない。製鉄所勤務だった父は軍隊に召集され青森にいた。2歳上の兄は両親の故郷で、釜石から西に100キロ離れた岩手県沢内村(現西和賀町)に疎開していた。

艦砲射撃の砲弾が直撃して折れた製鉄所の煙突=釜石市郷土資料館提供 拡大
艦砲射撃の砲弾が直撃して折れた製鉄所の煙突=釜石市郷土資料館提供

恐怖、今も夢に

 釜石で過ごした日々は佐々木さんにとって宝物だ。戦争は既に始まっていたが、神社の境内でトンボを追い掛けたり、子どもたち20~30人でチンドン屋さんの後を追い掛けたり、紙芝居を見たり。

 「あのころは楽しかったなあ」。佐々木さんは目を細める。戦後移った沢内村は雪深い山村で、海沿いの工業都市だった釜石のはつらつとした雰囲気が今も心に残る。

 そんな日々を一変させたのが艦砲だった。

 1回目から3週間余りたった8月9日、さらに激しい艦砲があった。米軍に加え英軍も参戦し、米軍だけで2781発の砲弾が発射された。午後1時前から3時近くまで続き、製鉄所だけでなく山側の社宅も砲撃された。

 その日、佐々木さんは社宅を飛び出し、近くのトンネルに駆け込んだ。無我夢中で、砲弾の音や爆発で土煙が舞い上がった記憶はない。耳に残るのは、親子連れとみられる人が泣き叫ぶ声だけだ。

釜石市郷土資料館を訪れた佐々木君雄さん。艦砲射撃の砲弾などが展示されている=岩手県釜石市で2025年7月14日、奥田伸一撮影 拡大
釜石市郷土資料館を訪れた佐々木君雄さん。艦砲射撃の砲弾などが展示されている=岩手県釜石市で2025年7月14日、奥田伸一撮影

 トンネルに誰がいたのかすら定かではないが、激しい泣き声が今も耳から離れない。大人になってからも、幼い自分が砲弾から逃れようと物陰に隠れる夢を何度も見た。二度も艦砲を経験したことが恐怖の記憶をより強固にした。

 戦後まもなく沢内村に移った佐々木さんは、中学卒業後に板金工となり、20歳で盛岡に来た。26歳で独立し、妻と2人の娘に恵まれた。86歳の今も現役だ。

 艦砲の記憶は常に頭にあったが、その存在感が増したのは30年余り前。釜石市内の女性らが編集した体験記録集を目にする機会があり、心が大きく動いたという。それから人づてに体験者に接触するようになった。当時感じた苦しみを分かち合い、犠牲者に思いを寄せたかったからだ。

「命日」に帰郷

 1回目の艦砲があった7月14日に帰郷するようになったのは20年前。それまでも気にはなっていたが、地元の神社の夏祭りで忙しかった。神社の役員を降りた後は毎年訪れ、幼いころ過ごした社宅跡などに足を運んできた。

 帰郷する度に物足りなく思うことがある。釜石にとっては多くの市民の「命日」に当たる日のはずだが、手を合わせる人に出会ったことがない。町を歩きながら、犠牲者を弔う気持ちが伝わってこないのがたまらなくもどかしい。「恐ろしい思いをして亡くなった人を思うと可愛そうで仕方がない」。佐々木さんはそう言って唇をかみしめた。

 「あと1カ月終戦が早かったら、釜石が砲弾にさらされることはなかった。戦場ではない場所で市民が砲撃されて死ぬなど、あっていいはずがない」。口数は決して多くはないが、言葉の端々に非戦の思いがこもる。【奥田伸一】

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