【戦後80年 あしたのために】初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さん(91)はあまりに過酷な戦中、戦後を生き抜いた。家族のほとんどを失い、戦争孤児として困窮生活を送った数年間。その体験を語り継ぐことをライフワークとし、今も世界中で戦争がなくなることを祈っている。
3月9日、香葉子さんは今年も東京・上野公園内の「時忘れじの塔」の前にいた。80年前の3月10日未明の東京大空襲で亡くなった10万人以上を追悼するため、私財を投じて2005年に建立。それから毎年開催されている「時忘れじの集い」。今年も「戦争で親を亡くした子供たちは悲惨です。もう決して、あの時の私のような子供をつくらないで」と祈りの言葉をささげた。
あの日、香葉子さんは東京から約100キロ離れた疎開先の静岡県沼津市にいた。今もその日の出来事を克明に覚えている。
「いてつく寒さの中、退避命令が出て近所の山に登りました。真夜中に“東京の空が赤いぞ”という声がして、頂上近くまで登ると墨を流したような夜空の端の方がぼうっと赤くなっていたのです」
香葉子さんは居ても立ってもいられず正座をして、一心に祈り続けた。
「どうぞ父ちゃん、母ちゃん、みんなを助けてください。お願いします」
それから4日後、三男の兄・喜三郎がぼろぼろの姿で沼津にやって来た。
「助けられなかった、申し訳ないと言って肩を震わせる喜兄ちゃん。でもこの兄までいなくなってしまったらと思うと、私はただ泣きじゃくり頭を激しく振るだけでした」
両親、祖母、長男、次男、四男の弟。6人を一度に失った。
終戦後、東京の親戚を頼って、焼け野原となった自宅近辺に戻ってきた。「かよちゃん、かよちゃん」と可愛がってくれていた近所の人たちは伏し目がちで、ほとんど声もかけてくれなかった。
住まいは親戚の掘っ立て小屋だった。戦争前は朗らかだった叔母がある日、面と向かってこう言った。「あんたが死んでくれたらよかったのに」。それから何度も叔母の言葉に傷つけられた。
「食べること、今日を生きることに精いっぱいだから、人も変わってしまったんだと思います」
今だからそう思えるが、当時はただただつらかった。家に居づらくなり、他の親戚を訪ね歩いたが、歓迎されることはなかった。野宿をする時もあり雑草を食べてしのいだこともあるほど困窮した。
そんなある日、父が親しくしていた落語家の三代三遊亭金馬師匠と奇跡的に出会った。「よう生きてた!もう心配ない」。金馬師匠に引き取られたのが16歳の時。終戦から5年がたとうとしていた。
養女となった香葉子さんはその後、初代林家三平と結婚。4人の子供をもうけた。「爆笑王」と呼ばれた夫は80年に他界。その後も香葉子さんは林家一門を支え、長男は九代林家正蔵、次男は二代林家三平として現在も落語界の第一線で活躍している。
ただ、香葉子さんが最も心血を注いだのは戦争体験を伝え継ぐことだった。映画にもなった絵本「うしろの正面だあれ」は、家族と幸せに過ごしていた少女が戦争で家族を失うものの懸命に生きるという自伝的作品。他にも数々のエッセー執筆、メディア出演などを通じて戦争の怖さを訴えた。
「戦後80年。日本ではその後戦争はないものの世界ではいまだ起きています。悲しいことです。世界中の皆が仲良く暮らせるよう、小さな声でも上げ続けなければなりません」
たくさんの命を奪うばかりか、明るくて優しい人の心まで壊してしまう戦争。香葉子さんは生ある限り、反対する。(江良 真)
◇海老名 香葉子(えびな・かよこ)1933年(昭8)10月6日生まれ、東京都出身の91歳。実家は釣り竿の名匠「竿忠」で、養父になった三代三遊亭金馬師匠は常連客だった。52年に初代林家三平と結婚。林家一門の「おかみさん」として家を守る一方、執筆活動を通じて平和の訴えを続ける。長男の九代林家正蔵、次男の二代林家三平は落語家になり、長女の美どり、次女の泰葉も芸能界で活躍するなど芸能一家。美どりの夫は俳優の峰竜太。
海老名香葉子さんが伝える戦争の悲惨さ 戦前は朗らかだった叔母が「あんたが死んでくれたらよかったのに」
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