人生の節目で「ライオン」に会っていたやなせさん
『アンパンマン』の作者、やなせたかしさんと、妻の暢さんをモデルにした2025年前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』110話では、「柳井嵩(演:北村匠海)」がラジオドラマの脚本として『やさしいライオン』という物語を作ることが発表されています。
1969年にやなせさんの初の絵本としてフレーベル館から出版される『やさしいライオン』は、1967年に文化放送でラジオドラマとして発表されました。四谷の荒木町に住んでいたやなせさんは、家から15分ほどのところにあった文化放送(現在は浜松町にある)で多数仕事を請け負っていたそうです。
やなせさんは当時のことを、さまざまな書籍で振り返っています。やなせさんはライオンの「ブルブル」と、ブルブルを育てた犬の「ムクムク」を描いた『やさしいライオン』の物語を、最初は短いコントとして書いていました。そして、1967年春にやなせさんのもとへ、文化放送から「やなせさん、『現代劇場』(番組名)のホンがまにあわなくて穴があきそうなんですよ。何でもいいから大至急一本書いてください」(自伝『アンパンマンの遺書』より引用)と、依頼が入ります。
やなせさんは『やさしいライオン』の話を30分にふくらませ、もともと仕事で知り合って親交のあった女優の久里千春さん(ブルブル役)、声優の増山江威子さん(ムクムク役)に声の演技を頼み、さらに1965年にやなせさん作詞の「手のひらを太陽に」のシングルを出した男性コーラスグループ、ボニージャックスにブルブルとムクムクの会話をつなぐ歌を歌ってもらうことにしました。作曲はボニージャックスの名付け親で、やなせさんと親交もあった磯部俶さん担当です。
ラジオドラマは好評で、前述のように絵本になりました。さらに、やなせさんは美術とキャラクターデザインで参加した虫プロのアニメ映画『千夜一夜物語』(1969年)完成後に、手塚治虫さんからお礼として虫プロで短編を作っていいと言われ、アニメ映画『やさしいライオン』を作ります。同作は1970年、第12回児童福祉文化奨励賞や、第24回毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞しました。
やなせさんはこの『やさしいライオン』をきっかけに、のちに絵本『あんぱんまん』(1973年)も書くフレーベル館での仕事が始まっため、自著『アンパンマン伝説』のなかで「『やさしいライオン』がなければアンパンマンもなかった」とも語っています。
その『やさしいライオン』は、やなせさんが新聞で「ドイツの動物園で犬がライオンを育てた」「サーカスの猛獣が逃げ出して射殺された」というふたつの記事を読んだのがきっかけだったそうです。また、自伝『人生なんて夢だけど』では、やなせさんの人生で印象に残っていた『やさしいライオン』以外の「2頭のライオン」について語っています。
1頭目は、やなせさんが幼少期を過ごした高知県後免町(現:南国市)でのことでした。ある時、伯父の寛さんが営む柳瀬医院の向かいにあった高橋石材店の親方が、墓石ではなくライオンの彫刻の依頼を受けて、得意げに石を彫り始めたそうです。
しかし、親方は神社の唐獅子を彫ってほしいという依頼を勘違いして作っており、行き場がなくなったライオンの彫刻は柳瀬医院の庭に置かれることになりました。その後、やなせさんはその彫刻を「やなせライオン」と名付け、2003年に母校の南国市立後免野田小学校に寄付しています。
また、2頭目はやなせさんが1947年から53年まで勤務した日本橋三越の正面玄関の前にいる、ブロンズ像のライオンだそうです。フリーになるまでお世話になった人生の出発点として、印象に残っていたといいます。
やなせさんにとって、この2頭は「怖くない」「噛みつかない」という点が『やさしいライオン』と共通していたそうです。さらに、やなせさんは特に親方作の「やなせライオン」について、『やさしいライオン』と似ていると語っています。
柳瀬医院の近くに石材店があった事実は『あんぱん』にも影響を与えていますが、ドラマにはライオンの彫刻は出てきていません。朝ドラでは、嵩がどのように『やさしいライオン』を思いつくのかも注目です。
参考資料:『アンパンマン伝説』(フレーベル館 著:やなせたかし)『人生なんて夢だけど』(フレーベル館 著:やなせたかし)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店 著:やなせたかし)、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋 著:梯久美子)
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