全国高校野球選手権大会は第8日の13日、阪神甲子園球場で2回戦があり、健大高崎(群馬)の佐藤龍月(りゅうが)選手(3年)が京都国際戦で登板した。優勝投手となった2024年3月31日のセンバツ大会決勝以来、500日ぶりの甲子園のマウンドに上がった。
背番号7をつけた佐藤選手はベンチスタートで、3―4の四回2死一、三塁の場面で3番手で登板し、相手の3番打者を遊ゴロに打ち取った。六回終了まで2回3分の1を投げ、2失点だった。
佐藤選手は背番号1だった昨春のセンバツ大会で初優勝に貢献したが、昨夏の甲子園大会直前に左肘の靱帯(じんたい)断裂と疲労骨折が判明し、8月末には左肘の内側側副靱帯再建手術「トミー・ジョン手術」を受けた。
今春のセンバツ大会では野手として出場を果たした。
試合後の佐藤選手の主な談話は次の通り。
健大高崎・佐藤龍月選手
本当に難しい大会だなと思った。結果が出せなかったことが本当に悔しい。
甲子園という舞台にまた帰ってこられたことがとてもうれしかった。投げる前は緊張もあったが、実際にマウンドに上がると、歓声が上がり、帰ってきて良かったなと思えた。
<優勝したセンバツ大会以来の甲子園のマウンド。手術後から今日まで>
本当につらい時もあったが、前向きにいくことを自分の目標にして常に生活していた。
<五、六回はいずれも先頭に四球を与えて1失点ずつ>
先頭を抑える意識でやっていたが、なかなかうまくいかなかった。
<スライダーを要所で使っていたのか>
群馬大会や練習ではスライダーをあまり投げていなかった。ただ、せっかくこの舞台に立たせてもらえたので、自分の武器のスライダーを一番に投げたいと思い、多くの球数を投げた。
<五回裏1死二塁のピンチで、2本の適時打を放っている猪股(琉冴)選手を遊ゴロに抑えた>
本当に良い打者だという情報があったので、投げる高さを特に意識して投げた。打ち取ったのもスライダーだった。
<試合終了直後、率直にどんな気持ちだったか>
試合に入り込んでいて、「もう九回か」と思った。危機感が生まれた時には、今までのつらい思いをしてきた時のことや、楽しかったことを思い出し、打席に立っている仲間を信じていた。
<昨夏の手術時にはこの日を想像できたか>
いや、最初に(手術を)決断した時にはほぼ諦めかけていたところがある。本当に多くの方に支えられ、ここまでこられた。またこの舞台に帰ってこられるように頑張りたいです。
トミー・ジョン手術は、2年ぐらいたってからやっと(移植した部分が)自分の腕になってくると思う。今のリハビリの段階でいろいろな経験をさせてもらい、良い勉強もできたので、それを生かして自分の力にしていきたい。
<高校野球をこれで終える。一番印象に残っていることは>
やはりセンバツ大会で優勝し、手術を経験したことが、自分の人生の中でとても大きいことだと思う。
<父正博さんも観戦し、「次のステージでもまた頑張れ」というふうに言っていた>
この舞台に立てた、(試合に)出させてもらえたのは、家族のおかげでもある。違う形で家族に恩返しをしたい。お父さんは、手術するかしないかってなった時や、落ち込んでいる時、前向きな言葉をかけてくれた。その言葉の力があったからこそ今ここに立てていると思うので、本当に感謝している。
<優勝の喜びも初戦敗退の悔しさも感じた甲子園はどんな存在か>
この大舞台を経験した分、これから先の人生の選択の場面では自信になってくると思うので、プラスに捉えてやっていきたい。
<進路はどう考えているか>
今はプロ志望届を出す予定。高卒プロ野球選手を考えている。マウンドに立ったら絶対的な安心感というか、そういう存在になりたい。
<青柳博文監督に伝えたいことは>
手術を決断し、(手術後には)「今は焦るな」と言ってくれた。リハビリでは車を出してくれるなど、いろいろなことをしてくれた。これから先、何か恩返しできたらいいなと思っている。
<石垣(元気)投手、下重(賢慎)投手とずっと夏を戦ってきた>
もっと一緒に投げたい気持ちがあって、この3人でここに戻ってこられた。
<試合後のダウンでは、石垣投手とキャッチボールをしていたがどんな気持ちだったのか>
1年生の時から2人で一緒に投げてきた。ここまで一緒に投げてきてくれてありがとうと伝えたい。
これからも高い舞台でまた出合うと思うので、頑張っていこうなっていう思いだった。最終的にはできれば同じ球団に入りたい。2人で日本を代表するピッチャーになりたい。
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