1990年代、多くの人気バラエティ番組で活躍していたのタレント・大東めぐみさん(53)。『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)や『なるほど!ザ・ワールド』『ライオンのごきげんよう』(フジテレビ系)、『日曜ビッグスペシャル』(テレビ東京系)などに出演し、八面六臂の活躍を見せていた。しかし、“バラドル”として人気絶頂のなか結婚。拠点を東京から大阪に移し、人生が激変したという。そんな大東さん自身の半生を振り返った──。【前後編の前編】
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「とにかく毎日、ワクワクして楽しかったですね。事務所が朝、家に車で迎えに来てくれて現場に入り、『THE 夜もヒッパレ』(日本テレビ系)の収録なんて長くて、夜中0時を回ることも珍しくありませんでした。年末だとそれから、『新春かくし芸大会』の練習をしに別のテレビ局へ移動することも……。睡眠時間がほとんどとれないので、移動する車の中で寝ていましたね。それでも、仕事がつらい、と思ったことは1度もなかったです」
20代の頃と変わらない、明るく元気な声でこう切り出した大東さん。思い出がとくに多いのは、『なるほど!ザ・ワールド』のロケだという。
「番組スタッフに『どこでも寝られますか?』と聞かれ、『はい』と答えたら“へき地担当”に。フィリピンのミンダナオ島へは、コウモリの糞をリポートしに行きました。
ミンダナオ島の空港に着くと大きな段ボール箱が置かれていて、『これに入れ』と言われまして、何かと思えば、これから行く所にはゲリラ隊がいて、女性は狙われ危ないから、箱に入れて私を運ぶというんですね。もうビックリでした!」
そんな危険な場所へ若い女性タレントを連れて行ってレポートさせるなど、近年のテレビ局が制作するのは難しい時代となったが、大東さんはスタッフの指示どおり箱の中へ入った。箱に空けられた持ち手の穴から外の様子を覗き見しながら、ミンダナオ島のジャングルの中へと連れて行かれたという。
「ある地点でポトンと箱から出され、そこからはカメラを回しながらジャングルを歩いてリポートをしました。道の途中、カカオの実が落ちていたので、『わ〜カカオだ!』と拾ってニオイを嗅いだら、甘いチョコレートのいい香りが……。後でまたゆっくり嗅ごう、と着ていた迷彩服の胸元にそのカカオの身を入れて歩き出しました」
ところが、しばらくしたら身体に異変が起きた。
「袖口から蟻がウジャウジャたっくさん出てきたんです。胸元に入れたカカオの実に大量の蟻が入り込んでいて、それが這い出してきたんですね。『ウワ〜ッ!!』と叫んでカカオの実をボーンと放り出し、慌てて迷彩服も脱ぎ捨てて身体中を払って大暴れ……。それを全部カメラで撮られていて、何かの賞をいただいたんですよ(笑)」
アイドル歌手としてデビューした過去
しかし、リポーターは自分が主役ではなく、主役を引き立たせるポジション。大東さんに葛藤はなかったのだろうか。というのも、大東さんは自身が主役として一身に視線を集めるはずの、ソロのロック系アイドル歌手としてデビューしたのだった。
大東さんは名古屋出身で、名鉄バスの運転手の父とバスガイドの母の間に、3人兄弟の長女として生まれた。中学在学中の1986年、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)主催の「ティーンズ・ポップ・コンテスト」に出場し、最優秀歌唱賞とセブンティーン賞を受賞。高校進学と同時に上京すると、1988年、シングル「扉を開けて〜TAKE A CHANCE〜」でデビューした(デビュー時の活動名は大東恵)。
だが、思い描いていた歌手生活とはほど遠く、夢はもろくも打ち砕かれた。
「フリルのついたスカートを履いて、スポットライトを浴びて歌い、年末には新人賞レースに出て、『お母さん、ありがとう!』と涙を流しながら電話をかける……という自分の姿を思い描いていました(笑)。
ところが、当時はレベッカさんやプリンセス プリンセスさんらが人気のあった時代。事務所の方針で“大東もロック系でいこう”ということに。
明るく元気な素の私を封印し、“しゃべっちゃダメ”、洋服は“カジュアルブランド・ヘインズのTシャツにジーズンズ”、と命じられました。そんなイメージを作ってがんばっても……私の歌は求められませんでしたね」
芸能界は勝てば官軍だが、売れないと所属事務所内でも肩身の狭い思いをする。お茶汲みやコピー取り、他の歌手のレコードの整理、書類運びなどで所在ない日々を送った。大東さんは何度も名古屋へ帰ってしまおうと思ったという。
「長女気質でしっかり者だった私は、『両親にはいっさい面倒をかけない!』と宣言して上京し、高校の学費も生活費も自分でまかなっていたので、ふだんの生活も大変でした。
品川のアパートの家賃は事務所が支払ってくれ、月給も7万円をいただいていました。でも、それでは足りません。事務所に内緒で、武蔵小山商店街『パルム』の中にあるケーキ屋さんでアルバイトしていました。そうしたら、あるとき滑って階段から落ちて腰の骨を折ってしまったんです」
入院を余儀なくされ、事務所にバイトの事実がばれてしまった。芸能活動継続の危機と思われた出来事だったが、それが大東さんの転機となった。
事務所のバラエティ班が大東さんのために動き始め、高校卒業後の1991年、ラジオ番組『モアモア爆笑新鮮組』(ニッポン放送)のアシスタントとしてレギュラーに。明るいしゃべりも解禁となり、ようやく“芸能人・大東めぐみ”が日の目を見始めたのだ。
『モアモア爆笑新鮮組』の放送を聞いた放送作家でタレントの高田文夫氏が、自身の人気ラジオ番組『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のアシスタントに大東さんを抜擢。そこからは、あれよあれよという間に売れっ子バラエティタレントに。とくにリポーターとして存在感を発揮した。
「伝える仕事という意味では、歌もしゃべり言葉も同じ。心をこめて言葉にし、どこでもどんな場所でも、私にしかできないリポートで現場を伝えるんだ、と誇りをもったことで、仕事がどんどん増えました」
バラドルとして人気絶頂だった1998年、大東さんは3歳年上の当時プロ野球選手だった大久保秀昭選手(大阪近鉄バファローズ)と電撃結婚。大阪・豊中で暮らし始め、大阪を拠点に新幹線で東京へ通いながら、家庭と仕事と両立する道を選んだ。
「事務所には猛反対されました。『東京に住んで別居結婚すればいい』と。でも、すぐに子どもができたこともあり、当時の私は夫婦は一緒に暮らさなくてはいけない、と思っていました。それに、仕事の現場には、マネージャーなしで海外でもどこでも1人で行けるようになっていたので、大阪が拠点でも全然問題ない、と思っていたんです」
山あり谷ありの芸能人生、大東さんはこう振り返った。
「過去に、歌手として胸を張って言えず、何者でもないつらさを経験したからこそ、その後はどんな仕事もありがたい、と感謝の気持ちで楽しめるようになったのです。転んでもタダでは起きないんです(笑)。でも、つらかった過去は顔に出さず、いつも明るく元気で、キレイでいたい。『最近はあんまりテレビに出ないね』とよく言われるのですが、それぐらい全然平気。今もいただいた仕事をひとつひとつ、大切にやらせていただいています」
(後編に続く)
取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/山口比佐夫
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