美少女すぎる子役時代、「殺してやる」と日記に書いた相手とは…女優で冒険家・和泉雅子が歩んだ“数奇なキャリア”「あの出会いがあったから、女優を続けられた」

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 2025年7月9日、女優で冒険家の和泉雅子が亡くなった。享年77。きょう8月26日は四十九日である。奇しくも67年前(1958年)のこの日、当時11歳の子役だった和泉が初めて出演した映画『荒城の月』が公開されている。


若き日の和泉雅子さん。7月9日に原発不明がんのため77歳で亡くなった ©文藝春秋

銀座生まれ、学校をサボるために劇団に応募し…

 東京・銀座育ちの和泉が子役になったのは、勉強が嫌いだったからだという。何とか正当に学校をサボる方法はないものかと思案していたところ、劇団若草の子役募集の新聞広告を見つけ、父と「もし受かったら一生続ける」と約束して応募する。ただ、試験では歌も演技もまったくできず、「泣いて」と言われても「悲しくもないのに泣けねえよ」と思わず江戸弁で口答えしてしまった。これは落ちるなと思っていたのに、合格した。どうやら顔がいいとの理由で受かったらしい。ちょうど劇団にモデル部ができたばかりで、そちらに入ることになる。

 ただ、劇団に入ってからも日本舞踊、バレエ、声楽などの授業があり、バレエは素質があったものの、ほかはいつも講師から「雅子ちゃんのようにはやらないように」と悪い見本扱いされていたらしい。

雑誌にも引っ張りだこの美少女ぶり

 それでも劇団に入って3ヵ月後、前出の『荒城の月』のオーディションを受けると出演が決まり、親元を離れて大分県へ15日間ロケに出かけた。映画に出られることよりも、学校に行かなくていいのがうれしくてしかたなかったという。この出演後、続けて木下恵介監督の『風花』で久我美子の役の少女時代を演じた。

 映画以外にも、テレビ映画『少年ジェット』(1959〜60年)に出演したほか、少女雑誌のモデルとしても引っ張りだこだった。当時の写真でその美少女ぶりを見ると、人気を集めたのもうなずける。

 ただし、本人は自分のルックスとやりたい役柄にギャップを感じていたようだ。本当にやりたかったのは、当時人気のあったアメリカのテレビドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』みたいなコメディだった。喜劇俳優になろうと、中学に入ると劇団若草をやめ、「金語楼劇団」の座長だった柳家金語楼に弟子入りする。しかし、ここでも顔がきれいだからと、コミカルな役はやらせてもらえなかった。

 それでも金語楼が出演するテレビ番組の公開生放送に同行しては、舞台袖で楽しく見せてもらっていた。このとき、当時のNHKの人気番組『ジェスチャー』で金語楼とそれぞれ白組・紅組キャプテンを務めていた水の江瀧子の目に留まる。

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