サンリオ創業者の原点は「甲府空襲」
やなせたかしさんと妻の暢(のぶ)さんの人生をモデルにしたNHK連続テレビ小説『あんぱん』では、妻夫木聡さんが演じる「八木信之介」が、自身の会社「九州コットンセンター」で出版部門を立ち上げて、「柳井嵩(演:北村匠海)」の詩集を刊行しました。
八木のモデルは、サンリオ創業者の辻信太郎さんと言われています。一代で「ハローキティ」「マイメロディ」などの人気キャラクターを世に送り出してきた辻さんは、どのような人生を歩んだのでしょうか。
現在97歳の辻さんは、1927年に山梨県甲府市で生まれました。辻さんは17歳のとき、死者1127名を出した甲府空襲(1945年7月6日深夜から7月7日までの間)に遭い、妹をおぶって逃げ回って九死に一生を得ましたが、防火水槽のなかで亡くなっていたおばあさんと赤ちゃんを見たことが強く印象に残ったそうです。このときの記憶が、サンリオとハローキティ誕生の原動力になります。
辻さんは1949年に山梨県庁に入庁し、1960年に「山梨シルクセンター」を設立しました。もともとは県の特産品である絹製品を広めるために作られた団体でしたが、辻さんは新たなビジネスを求めてさまざまな雑貨を販売します。最初のヒット商品は、花柄を付けたゴム草履でした。その後、商品にいちごなどのかわいいイラストを付けることで、売上を大きく伸ばしていきます。
そして、やなせさんと辻さんは、1960年代半ば、やなせさんが自作の陶器の個展を開いていた頃に出会います。辻さんが最初に依頼したのは、お菓子のケースのデザインでした。
その後、やなせさんが自費出版するつもりでいた詩の原稿を見せると、辻さんは自分が出版したいと申し出ます。辻さんは学生時代から詩を愛する文学青年でした。
社内の反対を押し切った辻さんは出版部を作り、1966年9月にやなせさんの処女詩集「愛する詩」を刊行します。女性の下着売り場でやなせさんのサイン会を開くなどの販売戦略も行った詩集は、5万部を売り上げるヒットになりました。
山梨シルクセンターで辻さんが力を入れたのは、ギフト商品です。5円のキャンディでも、心をこめて選べば素敵な贈り物になるというメッセージをこめて、子供が無理のない金額で買える商品をそろえ、日本に定着していなかったグリーティングカードも普及させました。
辻さんは「ちょっとした贈りもので感謝や思いやりの気持ちを伝えることから友情と信頼が生まれる」という意味を持つ「スモールギフト・ビッグスマイル」を掲げ、これらの商品を「ソーシャル・コミュニケーション・ギフト」と名付けています。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が登場する、はるか前のことです。
順調に業績を伸ばし、1973年に社名を「サンリオ」に改称した辻さんは、「みんななかよく」という企業理念を掲げます。同じ年にやなせさんの提案で刊行したのが、『詩とメルヘン』です。辻さんはこの提案を快諾し、ポンと120万円を出しています。
やなせさんが編集長を務めた『詩とメルヘン』は、たちまち完売し、同誌は30年続きました。やなせさんは『詩とメルヘン』の成功によって優秀な人材がサンリオに集まり、発展していったと振り返っています。この頃、誕生したのが世界的人気を誇るキャラクター「ハローキティ」です。
辻さんは、企業にはビジネスを通して子供たちに戦争のない世界を残す責任があると考えていました。そのために、平和な社会の象徴である「かわいい」ものの価値を広めようとしたのです。辻さんは2025年6月のNHKのインタビューで、次のように語っています。
「人が人を殺し合っていいことはなく、間違っているんです。戦争してもしかたないなんていうことはありえないんです。人と殺し合うことだけはやめないとだめなんだと大きい声で世界に向かって言ってほしいと作ったのが、ハローキティなんです。キティは仲よしのシンボルなんです」
『あんぱん』107話で、八木は「戦争を経験した俺たちの会社の目標は何だ。人を幸せにすることだろ。そのためにはまず、優しさや思いやりの気持ちを広げたい。あいつの詩にはその力がある」と語っていました。これは辻さんの信念に基づいた言葉だといえるでしょう。
参考:やなせたかし『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)、やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)、梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)
※記事の一部を修正しました(2025年8月27日13:44)
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