定年前の実績「役に立たない」元エリート記者、バルセロナで豆腐屋に

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バルセロナで開いた豆腐屋の店内。清水建宇さんは豆腐の製造、妻の美知子さんは売り場を担当した=清水さん提供
バルセロナで開いた豆腐屋の店内。清水建宇さんは豆腐の製造、妻の美知子さんは売り場を担当した=清水さん提供

 国際的な観光都市として知られるスペイン・バルセロナ。

 清水建宇(たてお)さん(77)がこの地で豆腐屋を開いたのは、62歳の時だった。

 論説委員まで務めた朝日新聞を定年退職し、選んだ第二の人生。

 「お豆腐屋になってからの方が満足度は高いです」

 そう胸を張る、人生後半戦の過ごし方とは。

 <主な内容>
 ・40歳の頃、「移住」を意識
 ・歴史を背景とする独特の風土
 ・「ないなら自分で作ろう」
 ・修業先での扱いは……
 ・「絶対に潰さないで」 同業者からの期待
 ・新しい、良い
 ・大きかった妻の存在
 ・第二の人生で得たものは

40歳の頃、「移住」を意識

 清水さんは朝日新聞の記者として、警視庁キャップや宮内庁担当などを歴任した。

 2000年から3年間、テレビ朝日系の報道番組「ニュースステーション」でコメンテーターを務めたこともある。

 バルセロナへの移住を考え始めたのは意外に早く、記者としてバリバリだった40歳の頃だ。

 日曜版の紙面で連載されていた「世界名画の旅」の担当になったのが、きっかけだった。

 取材の一環で訪れると、第一印象がとても良かった。

 「アジアから来た黄色人種の変なヤツがいる、という目で見られなかったんですよ」

 一連の取材では他の国の都市も数多く訪れたが、そのような感覚を抱いたのはバルセロナだけだった。

歴史を背景とする独特の風土

 なぜだろうと調べてみると、歴史が関係しているらしい、ということが分かった。

 バルセロナを州都とするカタルーニャ州はフランコ将軍の独裁政権下で多くの市民が処刑されたり、カタルーニャ語を禁じられたりした過去を持つ。

 この弾圧はフランコ将軍が1975年に死去するまで続いた。

 ゆえに多くの住民はカタルーニャ人であることを誇りに思う半面、スペインにいながらスペインに強い拒否感を持っている――。

 自分なりに、そう考察した。

 清水さんは「自分の国籍が嫌いである人にとってね、よそから来た人の国籍がどれほど問題になるかと。あまり問題にならないですよね。それが、変なヤツがいるぞという視線を浴びなかった理由だろうと思ったんですね」と振り返る。

「ないなら自分で作ろう」

 美しい街並みや食文化にもひかれ、退職後はバルセロナで暮らしてみたいとの思いが募っていった。

 一方、気がかりもあった。

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