猛暑の夜なのに背筋が凍る「恐怖」 スナックだけど「仕事の場」

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本社所蔵写真より。東京、大阪など大都市では1980(昭和55)年ごろからカラオケ・タクシーも登場 拡大
本社所蔵写真より。東京、大阪など大都市では1980(昭和55)年ごろからカラオケ・タクシーも登場

 「災害級の暑さ」という言葉が新語・流行語大賞のトップテンに入ったのは2018年だが、それ以前から耐えがたい暑さは始まっていた。10年の夏、大阪郊外の団地を取材で訪ねた時、先達をお願いした初老の男性が日よけとして傘を差して歩いていた。まだ男性と日傘が結びつかない頃で、驚いた。「危険な暑さ」「熱中症から命を守る」のフレーズを毎日のように聞く今や、大人だけでなく小学生も日傘を差して学校に通う。

 先日の猛暑の夜、居酒屋から流れたスナックで背筋が凍る思いをした。幼い頃、甘い菓子を食べられる場所だと思って父に「スナックに行こうよ」とねだって笑われたものだが、和歌山市の繁華街・アロチのそこはカウンターに常連客が肩を寄せ合ってにぎやかだった。酔いが一気にさめたのは、カラオケ装置を目にしたからだ。飲み歩く習慣がなくなって久しい私は、スナックといえばカラオケということを忘れていた。

 私はカラオケ恐怖症である。小学生時代、音楽の授業のテストでみんなの前で一人ずつ歌った時に笑われた古傷のせいか、大学生や社会人になって回避が難しくなったカラオケの場は苦痛で仕方がなかった。仕事に熱中していくにつれてカラオケは縁遠くなり、油断していた。しかもこのスナック、ママはお客と会話を楽しむ気はないらしく「うちは歌わんと帰れやんでえ」と叫び、ほれほれ、とマイクを突きつけてくる。同行の男性3人は重要な取引先及び取材先であって、仕事の場でもある以上、逃げ出すわけにいかない。

 私は野球の話に熱中しているふりをしつつ、ウイスキーを立て続けにあおって自分は酔っ払いだと暗示をかけた。そして「誰も聴いちゃいない」と自分に言い聞かせながら、メロディーが単調な「ラバウル小唄」と「月月火水木金金」を歌った。どうしてももう一曲となれば「お座敷小唄」を想定していたが、デュエット曲のはずだからママまたは他のグループの女性客を巻き込むことになり、はた迷惑だったろう。飲み過ぎ、そして二十数年ぶりの緊張。帰宅後は天井がぐるぐる回った。

本社所蔵写真より。1982(昭和57)年、茨城県で。カラオケは業務・酒場用に続き、第2の市場として家庭用が登場。本体6万円、マイク・テープともで10万円が売れ筋だったとか 拡大
本社所蔵写真より。1982(昭和57)年、茨城県で。カラオケは業務・酒場用に続き、第2の市場として家庭用が登場。本体6万円、マイク・テープともで10万円が売れ筋だったとか

 昨年の夏のこと、和歌山が誇るミュージシャン、ウインズ平阪さんにお誘いいただき、楽しいお仲間たちとの食事会に参加した。2次会はカラオケバーへ移動するとの予定を聞き、恐怖した私は「用事があるから」と言い訳してあらかじめそちらは断っておいた。さて食事会、飾らない人柄の平阪さんにひかれ、つい「本当はカラオケが嫌で逃げ帰るんです」と白状した。平阪さんは真面目な顔で「そういう方、実は多いんですよ」と何度もうなずいてくれた。

 さらに、平阪さんはどうしてもという場合に備えて、歌うのが簡単で、かつ座が白けない曲を教えてくれた。現代のヒット曲であり、軍歌ではない。それでも私は逃げ帰り、先日のスナックでも緊張のあまり、せっかく教わった歌いやすい現代曲のことを思い出さなかった。ただ、歌をなりわいとする平阪さんにカラオケ恐怖症を肯定されて救われていたゆえに、スナックで開き直れたような気がしている。

 窮地を脱し、残暑の語感とはほど遠い暑い日常に戻った。子ども時代の昭和50年代半ば、うちではクーラーは特別だった。祖母が書道教室を開いていた和室に木目調の「霧ケ峰」が取り付けられたが、生徒が帰れば即スイッチオフ。残る冷気を求めて母や妹と和室に飛び込み、次の生徒が現れるまで涼んだ。外で元気に遊ぶことが奨励された小学1年の夏休みが明けた教室では、今なら問題になるだろうが、どの児童が最も黒く日焼けしているかを競うコンテストがあった。往事茫々(ぼうぼう)である。【和歌山支局長・鶴谷真】

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