
文壇バーの灯がまた一つ消える――。
作家の丸谷才一さんや漫画家のさいとう・たかをさんらが通った東京・銀座の「ザボン」が8月末で店を閉める。
店主の水口素子さん(79)が一人で守ってきた老舗の文壇バー。新型コロナウイルス禍による営業不振に持病の悪化も重なって、続けることは難しいと決断した。「銀座で約50年。十分働きました」
名付け親も丸谷さん
文壇バー1号店といわれた店の系譜を継ぐクラブ「眉」で働いていた水口さんが独立し、銀座6丁目に「ザボン」を開店したのは1978年。ある雑誌の編集長の勧めに、丸谷さんが背中を押してくれ「気楽な気持ちで始めたんです」。

出身地・鹿児島県の特産品にちなんだ店名を付けてくれたのも丸谷さんだ。
当初はたった3坪、カウンター席だけの小さな店だったが、置く酒にこだわり、人気を博した。夜な夜な、近くの大手企業の幹部や出版関係者をはじめ、政財界の重鎮も集った。芥川賞の選考会が開かれた夜には、編集者や選考委員の作家が、受賞者を迎えて祝賀会を開くのが恒例だった。ときには、後輩作家が先輩作家から“厳しい”叱咤(しった)激励を受けることも。「お酒の席だからこそ、ざっくばらんに言えることもあったのでしょう」と水口さんは振り返る。
バブル経済崩壊、リーマン・ショック、東日本大震災。数々の逆境を乗り越え、2018年に迎えた40周年。半藤一利さん、林真理子さん、島田雅彦さん、吉田修一さん……そうそうたる顔ぶれがそろい、祝いの会が開かれた。
次の10年へ決意も新たにしたが、新型コロナ禍での落ち込みからの回復は難しかったという。「銀座の文化も変わりました。会話を楽しむという店はもう古いんでしょうね。閉店するのは寂しいですし、もうちょっと続けてくれというお客様の声もあります。でも決心したらスッキリしました」
ザボンで「怒られるのが楽しみ」
「ザボンで丸谷さんに怒られるのが楽しみでした」と話してくれたのは、芥川賞作家の辻原登さんだ。
「他の場所では決して怒ったりしないのですが、ザボンでは本気で怒った。あまりの勢いに、水口さんが間に入って取りなしてくれたこともあります。でも、酒の場だから深刻にならない。ザボンだから丸谷さんも怒る気になり、僕も聞く気になる」

辻原さんは敏腕トレーダーを主人公に金融界を描いた小説『発熱』では、ザボンを重要な舞台の一つにした。水口さんも登場する。「文壇バーはどんどんなくなって、交流する作家も少なくなりました。そうした文化を引っ張っていたのは出版社。閉店は出版界の衰退と重なります」
直木賞作家の重松清さんは「とても寂しいけれど、これも一つの時代の終わりなのでしょう。そうそうたる先輩作家たちの伝説をママから聞くことが楽しみでした。昭和と平成の文壇の『舞台裏』を見てきたママには、長年の疲れをゆっくりと癒やして、いつまでもお元気でいてほしいです」とコメントを寄せた。
『酒と作家と銀座』(大和書房)などの著書もある水口さんは「しばらくはのんびりして、落ち着いたらエッセーでも書こうかな、なんて考えています。本になったらうれしいですね」と新たな夢を語った。【小松やしほ】
Comments