
自分は両親の本当の子どもではないのでは――。そう疑い、自身のルーツを調べた宮城県石巻市の佐藤晃子さん。浮かび上がったのは、半世紀前に社会を揺るがせた「赤ちゃんあっせん事件」だった。
彼女は、残された赤ちゃんの一人だったのでしょうか。自身のルーツを探す女性の旅を、前後編で描きます。
前編 「私はどこから来たの」 半世紀前の「赤ちゃんあっせん事件」
後編 医師は英雄だったのか 赤ちゃんあっせん、残された女性の叫び
新聞広告で発覚した事件
「急告! 生れたばかりの男の赤ちゃんを我が子として育てる方を求む。菊田産婦人科」
宮城県石巻市の開業医、菊田昇氏による違法なあっせん行為が発覚したのは、佐藤さんが生まれる数年前の1973年4月だった。
きっかけは、菊田氏が地元新聞に出した新生児のもらい手を募集する広告。それを基に、毎日新聞が違法あっせんの実態を1面でスクープした。
現在、人工妊娠中絶が認められるのは妊娠22週未満までだが、当時の優生保護法(現母体保護法)下では8カ月未満まで可能だった。
菊田氏の著書「天使よ大空へ翔(と)べ」によると、当時、強姦(ごうかん)による妊娠や経済的な理由から、この期間を過ぎても中絶を申し出る母親が少なくなかった。
母体を危険にさらし、胎外でも生存可能な赤ちゃんの命を奪うことに、菊田氏は強い抵抗感があったという。
そこで、堕胎を希望する母親を説得し、子どもを望む別の夫婦に新生児を託すようになった。
自治体に提出する出生証明書は菊田氏が偽造していた。それらの行為は、佐藤さんが生まれた後の77年まで続き、引き渡された赤ちゃんは約220人に上ったとされる。
「違法覚悟でやった」
当時の毎日新聞によると、菊田氏は新生児のあっせんについて「子どもの将来、母体の健全を願う道義的責任から、違法を覚悟でやった」と説明している。発覚する10年ほど前から続けていたという。
動機については「(実親との法的関係が続く)養子縁組だと引受人はいない。将来、問題を起こしかねないからで、実子として認めてやるほうが子ども・引受人の幸せになる」と訴えた。
同時に、養子を法的に実子として扱う「特例法」を創設するよう求めた。
菊田氏は77年に医師法違反の疑いで愛知県産婦人科医会から刑事告発され、罰金刑が確定。6カ月の医業停止処分も受けた。
マザー・テレサに続く受賞
刑事的にも医師としても責任が問われる一方、その行為は激しい議論を巻き起こし、菊田氏は国会にも参考人として出席した。
波紋は…
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