
母親の遺品から見つけた母子手帳には、不可解な点があった。
通常は妊娠初期に交付されるが、記された日付は出産予定日のわずか1週間前になっている。
「自分がどこから来たのか、知りたいんです」。宮城県石巻市で暮らす元教員、佐藤晃子さんは手帳に目を落とし、つぶやいた。
自分は両親の本当の子どもではないのでは――。長年、そんな疑念を抱いてきた。調べ始めると、それを裏付ける証言が次々に出てきた。
浮かび上がったのは、半世紀前に社会を揺るがせた「赤ちゃんあっせん事件」。現役医師が、生まれたばかりの子を他の夫婦に次々と引き渡していた、前代未聞の事件だった。
彼女は、残された赤ちゃんの一人だったのでしょうか。自身のルーツを探す女性の旅を、前後編で描きます。
前編 「私はどこから来たの」 半世紀前の「赤ちゃんあっせん事件」
後編 医師は英雄だったのか 赤ちゃんあっせん、残された女性の叫び
異なった血液型
家族の温かさを知らずに育った。一人っ子で、ずっときょうだいが欲しかった。
父親は石巻で船舶修理会社を経営し、経済的に不自由はなかったが、家族関係はぎこちなかった。
親子3人で仲良く食事をした記憶もない。母親は完璧主義で、佐藤さんが言うことを聞かないと、車庫に閉じ込めたり、顔をたたいたりした。
両親の仲も悪く、ささいなことからよく言い争っていた。
子どもの頃、自分の血液型は両親からは通常生まれてくることのない型だと気づいた。
「私は、本当の子どもじゃないのかもしれない」
そう疑ったが、両親に直接尋ねることはできないまま月日が流れた。
大学受験の直前に父親が亡くなった。家計は急に苦しくなり、奨学金を借りて関東の大学に入った。
「地元に戻りたくない」と考え、卒業後は神奈川県横須賀市の米軍基地で働いたが、2001年の米同時多発テロの影響で仕事を失った。
家庭教師などのアルバイトを転々としたが、次第に生活が苦しくなり、03年に石巻へ戻った。
地元の中学や高校の教員を経て、現在は東日本大震災の復興ボランティア活動に関わっている。
母親は3年前に亡くなり、今は1人暮らしだ。
「独りぼっちになっちゃう」
母親は晩年、認知症になり、持病の糖尿病が悪化して入退院を繰り返していた。自宅で息を引き取る直前、佐藤さんは意を決して尋ねた。
「私、独りぼっちになっちゃうね。なんで私にはきょうだいがいないの? 作ろうとしたの?」
ずっと聞きたくて、聞けなかったこと。病床の母に問いながら、涙があふれた。
だが、横たわった母親は「んー、んー」と苦しそうにうめくだけで、答えは返ってこなかった。
長く抱いていた疑いが確信に変わったのは、葬儀の後だった。知人からこう告げられた。
「晃子ちゃん、あんたやっぱり、もらわれてきたんだってよ」
驚いたが、これまでの家族関係を考えると納得がいった。
自分の生みの親は誰なのか。本当の家族は、どこにいるのか。「親は無理かもしれない。だけど、血を分けたきょうだいがいるなら、会ってみたい」
これまで感じられなかった、家族の温かさを知ることができるかもしれない。自らのルーツを探す旅が始まった。
残された、ある医師の名前
まずは、事情を知っているかもしれない地元の関係者を訪ね歩いた。
分かってきたのは、親戚や近所の住民など複数の人が実は、佐藤さんのことを「もらい子」だと認識していたことだ。
親戚の一人は、両親が祖父に「子どもをもらう」と報告していたと証言した。
小学1年の時の担任だった元教諭は「入学当時、(母親から)『実の子ではない』と聞いた」と打ち明けた。だが、それ以上は口をつぐみ、聞き出すことはできなかった。
母の遺品を整理していると、古びた母子手帳が見つかった。担当医師の欄には「菊田昇」というサインがある。
それは、1970年代に世間を騒がせた医師の名前だった。
国会も巻き込んだ議論に
故・菊田昇氏(91年に死去)は石巻で医院を営む産婦人科医だったが、驚くべき事件が73年に発覚する。
長…
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