芸人仲間からの評価は高いのに露出が少ない芸人は数いるが、中山功太(45)はその代表格だろう。南海キャンディーズの山里亮太(48)、とろサーモンの久保田かずのぶ(45)ら同期が才能を高く評価。その後押しもあって、少しずつ露出は増えてきた。そもそも09年「R−1ぐらんぷり」チャンピオンで腕は確か。それがなぜ、売れなかったのか?衝撃の極貧生活を振り返りながら芸人として生きる道を語った。(取材・構成 江良 真)
◆◆ポリープ手術で“ええ声”になったけど困った事が…◆◆
――3月に声帯ポリープの手術をされたのですね?
「原因はたばこやと思います。1日3箱は吸ってたんで。以前はトークライブとかでも、後半になると何をしゃべってるのかわからん状態になってたこともありました。早めに気づいて良かったです。窒息とかもありえた病状やったので」
――そんなに…。
「ただ声が変わったのには戸惑いました」
――そうなんですか?
「声が高くなったんですよ。他人は気づかないとは思うんですけど自分では大きくて。間とかも変わってくるんです。ガラガラやったのが高くなったので、同じ言い方やのになんかしっくりこない。間も少し考えないといけなくなって、こんなことになるとは思わなかったけど、身体のことを考えると良かったんでしょうね」
――では8月3日の単独ライブ(「last rust lust 10th」、よしもと幕張イオンモール劇場、18時30分開場)はリニューアルした中山功太さんの初ライブということになりますね(笑い)
「そうです。それもあって、今回はやりたいネタを優先してやる感じです。これまではテーマを決めてたんですけど、今回は特に決めず、自分の気持ちを優先するという感じですね。いつも単独はそうなんですが、今回もほぼすべて新ネタでやろうと思ってます」
――芸人になりたいと思ったきっかけを教えてください。
「小学2年生の時にテレビで初めて吉本新喜劇を見たんです。衝撃でした。子どもながらに演劇は感動させるものと思っていたのに、完全に笑いに特化していて、“なんだ、これは?”と思いましたね。吉本に入ろうと思ったのも新喜劇が大きかったです」
――NSC22期ですよね。同期がすごいメンバー。南海キャンディーズの山ちゃん、とろサーモンの久保田さん、キングコング…。
「そうですね。劇場には千鳥さん、麒麟さん、笑い飯さんらがいて、本当にレベルは高かったと思います。ぼくも最初はピンではなくて、コンビでした。コントをやりたくて、相方もすごいおもしろい人でした。でも、家にちゃんとお金を入れたいと言って4年で辞めたんです。ステージではアホなことやってんのに裏ではこんなにきちんとしたことを考えてるんや、と尊敬とかショックとかいろんなことを感じました。ぼくはそのころ実家だし、ごはんも母親が作ってくれてたんで」
◆◆絵ではなく言葉のセンスで勝負するフリップ芸を確立◆◆
――そこから芸に真剣に向き合うことになつんでしょうか?
「いや(笑い)、まだしばらくはフラフラしてましたね。本当に本気になったのは父親の会社が倒産したときです。家がなくなって、おれ1人暮らしせんとあかんねや、となって。それから頑張ってネタを作るんですけど、舞台でまったくウケないんです。よく先輩に怒られました。どんだけスベんねん!とか、おまえのコントはなんで最後に人死ぬねん!とか。その後にやる人間のこと考えろって。確かにそのころは周囲のことを何も考えてなかった。単独ライブでもないのにお客さんがうつむくようなネタをすんねやろ、と反省して。そんな中でウケが良かったのがフリップを使った“対義語”のネタでした」
――フリップ芸は今でこそ多くのピン芸人さんがやっていますが、そのムーブメントを作ったのは中山さんらの世代でしたね。
「まず鉄拳さんですね。でも、ぼくはあんなにうまく絵を描けないので、パクりにならないように、言葉で見せる形にしたのが対義語でした。あとはネゴ(ネゴシックス)ちゃん。凄まじかった。フリップだけど、もはや工作だったし、ネタも新しかった。同期ですが、何にも勝てるところがなくて、焦りを感じていました」
――しかし、その気持ちを糧に2009年にR―1で優勝されます。ところが、ブレイクとはならなかった。
「いやー、ほんと、テレビも劇場も何をやってもダメでした(笑い)。ぼくは緊張しないんです。緊張してよく考えて話す人は対処しようとするんですが、ぼくは好き勝手しゃべってるだけ。そうなると編集もしづらい。しかもコンビの人と共演したら、ぼくは2倍しゃべっていいみたいな謎のルールを勝手に作っていて、周囲は迷惑だったみたいです」
――生活も苦労されたと聞きます。
「10年に東京に出てきて10年間は借金も途切れたことないんです(笑い)。13年には人生で初めて、電気ガス水道が止められたんです。水道とか止まらないと思ってたら止まったんですよ。これ、ネタやなくて、雨水飲んでましたからね。コップ持って。焼酎を雨で割ったこともあります。バイトもしてたんですけど、気づいたらそうなってました。普通にネタのライブも出てるし、サボってたということもないです。でも、シンプルにお金になる仕事がなかった」
◆◆新ネタをやり続ける理由はベテランアスリートと同じ理屈◆◆
――やはりテレビに出られないのは大きかったのでしょうか?
「それだけではないです。劇場での態度も悪かったと思います。大阪でやってた頃の劇場メンバーとは明らかにレベルが低くて、なんでこんなレベルでお客さんが笑ってるんやろ?と。笑い飯さんや千鳥さん、南キャン、とろサーモンらがいた劇場とどうしても比較してしまって、共演者だけでなくお客さんにも腹が立って。ずっと怒ってました。そんな雰囲気が出てたんでしょうね」
――そんな暗黒時代を乗り越えて、最近はメディアでの露出も増えてきました。
「同期が認めてくれているのはうれしいですね。山ちゃんとか久保田とか。それに昔のぼくを知っている制作サイドの人たちとか。長くやっているといいこともあるんですね(笑い)。最近は少し仕事もいただくようになって、テレビにも呼んでもらって、そしたら楽屋があって、しかも弁当とかいただいて。こんな幸せなことはないですね」
――(笑い)今の芸人としての目標は?
「反応とか笑いの精度とか若い人が共有する知識の獲得とか、どんどんこれから衰えていくと思うんです。だから、ぼくは少しでも衰えが遅れるように新ネタをやり続けています。ベテランのアスリートが必死に練習していることに似ているのかもしれません。トークとかテレビとかYouTubeとか、これからも出してもらうために衰えてたまるか!という思いですね」
◇中山功太(なかやま・こうた)1980(昭55)6月24日生まれ、大阪市出身の45歳。02年からピン芸人として活躍し、09年に「R−1ぐらんぷり」優勝。翌年から東京進出。15年9月には「歌ネタ王決定戦」で優勝するが、大きな仕事に恵まれず。しかし、19年にテレビ朝日「しくじり先生」に出演してから少しずつ仕事が増え始めた。現在はテレビ、ラジオ、配信などさまざまなフィールドで活躍している。
中山功太 元R−1王者はなぜ極貧生活に転落したのか!?「水道止まり、焼酎を雨水で割って飲んでいた」
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