7月15日夜、大関・琴桜の姿は佐渡ケ嶽部屋宿舎の薄暗い稽古(けいこ)場にあった。
この日、大相撲名古屋場所3日目の取組で大関経験者の高安に敗れていた。
一人きり、黙々と四股を繰り返す。その様子を目撃した父で師匠の佐渡ケ嶽親方(元関脇・琴ノ若)には、自分の相撲を振り返り、何かを修正しようとしているように映った。
「自分の気持ちを切り替えられるなら、それでいい」
あえて師匠は何も言わず、そっと見守り、その場を離れた。
名古屋場所で琴桜は8勝7敗にとどまった。4場所連続で優勝争いに絡めていない。
悲願の横綱昇進へ、師弟の暗中模索が続いている。【石川裕士】
支度部屋で大関の口数は少ない。師匠も、その素顔を「真面目すぎるぐらい真面目」と表現する。
そして、あるエピソードを、冗談交じりに教えてくれた。
以前、黒星続きの琴桜を見かねて、「験直しに酒でも飲みに行ってこい」と励ましたことがあった。ところが大関の返事は「いや、四股を踏みます」。
琴桜は、本場所の約2週間前にある番付発表からは飲まないと決めている。激励会などの席でも乾杯で口をつける程度だ。
かつて白星に気を良くして酒を飲み、そこから調子を崩したことがあった。その反省があるのでは、と師匠は推測する。
「クエスチョンマークいっぱい」
琴桜の母方の祖父は、第53代横綱・琴桜の鎌谷紀雄さん(2007年死去)。ぶちかましからの押し相撲で鳴らし、「猛牛」と呼ばれた。
琴桜が生まれた頃は、祖父が佐渡ケ嶽部屋の師匠で、現役だった父らを指導していた。琴桜自身も2歳の頃からまわしをつけて土俵に立った。
身長189センチ、体重179キロのどっしりとした体格に成長した琴桜。右四つなど得意の型に持ち込めば無類の強さを発揮する。
父と同じしこ名の「琴ノ若」だった昨年春場所で大関に昇進し、大関2場所目から祖父の横綱の名を継いだ。昨年の九州場所では悲願の初優勝を遂げた。
しかし、初の綱取りに挑戦した今年の初場所で5勝10敗とつまずくと、続く春、夏、名古屋の直近3場所はいずれも8勝7敗に終わった。その間に豊昇龍、大の里が番付最高位を極めた。
敗れた取組では、消極的で守勢に回ってしまう相撲が目立つ。師匠は言う。
「大関になったら、やっぱり苦しい。『大関として負けちゃいけない。勝たなきゃいけない』という気持ちが先に出て、思うように体が動かないんじゃないかな」
琴桜は今年に入り、賜杯を抱いた昨年九州場所の自身の映像を繰り返し見ているという。
師匠は「自分には分からないけれど」と前置きした上で、その心中を推し量る。
「『なんで俺、足が出ないんだろう?』って、自分でもクエスチョンマークがいっぱい出ていると思う」
一つ上の段階に行きたくてもなかなか進めない「階段の踊り場」にいるのだろう。そんな大関に師匠が伝えていることがある。
「やっていることは必ず結果としてついてくる。続ければいい」
そして「『飲みに行け』と言うのはもうやめました」。
「弟弟子の旗手」に
7月の名古屋場所は、同部屋の前頭・琴勝峰の初優勝で幕を閉じた。その優勝パレード。オープンカーの座席からファンに手を振る琴勝峰の傍らには、旗手の琴桜がいた。
大関が下位力士の旗手を務めることは珍しい。師匠が「お互いに刺激し合ってくれれば」と相乗効果を期待しての起用だった。
27歳の琴桜にとって、2学年下の琴勝峰は小学生時代に同じ相撲クラブに通い、埼玉栄高でも一緒に汗を流した間柄だ。弟弟子の快挙をたたえつつ、厳しい表情を崩さなかった。
「同じ稽古場でやっている力士がいい成績を残せたのはうれしい。自分もその舞台で戦いたい。手放しで一緒に喜んでいては駄目」
目指すのは、もちろん祖父と同じ地位。師匠も同じ思いだ。揺るぎない力を蓄えた上で、上り詰めてほしいと願う。
「今やっていることと精神面が本当にかみ合う時が来れば、いけるんじゃないかな」
サクラも冬の厳しい寒さを味わってこそ、春に満開の時を迎える。
じっくり、真面目に、こつこつと。たゆまぬ鍛錬の先に、一つ上の景色がある。
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