中尾ミエ 6人きょうだいの4番目で「いいとこの子」も「父の失敗」で家族で上京「6畳4畳半」極貧生活

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 歌手の中尾ミエ(79)が4日放送のBS12「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」(月曜後9・00)にゲスト出演。幼少期について語った。

 中尾は1946年、福岡県小倉市(現北九州市)で生まれた。父の実家は本屋を営んでおり、「教科書を学校に全部、祖父がね」と明かした。

 「だから学校なんかいい学校に」と中尾。幼い頃からダンスなど多くの習い事していたとし「子供が6人いたもんで。商売してたでしょ。親はほら、いちいち面倒みてらんないから。みんな習い事に出しちゃう。するといないから」と続けた。

 歌はいつから歌っているのかと問われると「歌は東京出てきてからですよ」と回答し、のど自慢大会に出ていたとも指摘されたが「東京出てきてから」「だって(小倉には)10歳までしかいないの」と回顧した。

 アメリカンポップスのイメージが強いと言われると、中尾は「それはだから、私が昭和21年生まれで、戦後すぐですからね。で、小倉には進駐軍がまだ残ってて」「それで、うちの母親が、あの、ちょっと洋物被れだったんで、若い兵隊さんをよくうちに招いて。出入りしてたから」と説明した

 家には英語のラジオが一日中流れており、「ジャズをね、耳から」。当時は「ペギー・リーとか。しばらくしてフランク・シナトラとか」と音楽に親しんでいたとした。

 当時はお嬢さまだったのかと問われると「いいとこの子でしたよ。はい」と家庭も裕福だったとしたものの、その後東京に出てきたのは「父の失敗で」と父が商売に失敗したためだと明言した。

 「父親はもう、あの、典型的な2代目だったんで。祖父が築いたのを全部ダメにして」「もう後半あっち移ったり、こっち移ったりしてましたね。でも、最終的に実家に行ったんですよ、父親のね。それはなんか武家屋敷みたいな立派なうちだったんですよ。でもそこで東京に出る時、なんか家具に、なんかこう赤い紙がいっぱい貼ってるなと思って」と差し押さえにあったとも語った。

 結局10歳の時に家族8人で千葉県市川市に移り、その後都内の経堂をへて上北沢へ。当時は「家族8人で、6畳4畳半の2間」に住んでいたという。

 どんどん生活が落ちていき「それでこりゃあもう働かなきゃっていうんで」と働き始めた。きょうだいは姉が2人、兄、妹、弟が1人の4番目だったが、知り合いから紹介され、米軍キャンプで「歌ったりとか」していたが、歌い始めたきっかけについては「その辺が曖昧なの」と苦笑した。

 当時は中学生だったが、「中学に入って2カ月ぐらいで、もう月謝払えなくなっちゃったから」とぶっちゃけ。「働かなきゃと思って働き始めた。そしたら、あの、すぐ売れちゃったから、渡辺プロに。途中はしょってますけどね」と振り返った。

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