原爆で傷ついた人たちが身を寄せ合う暗がりの地下室。一人の女性が産気づき、人々は痛みを忘れて気遣った。「生ませましょう」。重いやけどによる高熱に苦しんでいた助産師が声を上げ、地獄の底で新しい命が産声を上げた--。
原爆投下の2日後、焦土と化した広島で生まれた赤ん坊が8日、80歳となった。広島市南区の小嶋和子さん。長男大士(ふとし)さん(44)が経営する飲食店「がんぼう」で仲間に囲まれ、笑顔を見せた。
小嶋さんが生まれた瞬間は、詩人で被爆者の栗原貞子さん(2005年に92歳で死去)の代表作「生ましめんかな」のモデルになっている。近所の人から話を聞きつけた栗原さんが、多くの命が奪われた広島で生まれた赤ん坊を希望の象徴として詠んだ。
小嶋さんの母親の平野美貴子さんは、爆心地から約1・6キロの広島貯金支局の地下で小嶋さんを産んだ。近くの自宅で被爆し、2日後に避難してきた。広島市立第一高等女学校(現市立舟入高)の1年だった姉の玲子さんは爆心地近くで、民家などを取り壊して防火帯を築く建物疎開の作業中に亡くなった。
母親はしばらくの間小嶋さんに、生まれた時の話をしなかった。1966年8月、「生ましめんかな」の親子が実在すると新聞で伝えられると、報道陣が小嶋さんの元に押し寄せた。
「自分は何も知らないのに」。若いころは注目されることに嫌気がさして、8月6日は県外や友達の家に行くなど、原爆の話題を避けていた。
転機は51歳だった97年7月、俳優の吉永小百合さんによる「生ましめんかな」の朗読を聞いたこと。吉永さんは東京大空襲から3日後の東京で生まれている。
同い年で境遇が似た吉永さんの温かい声に包まれると、当時の光景がよみがえるようで、涙があふれた。初めて詩と向き合えた瞬間だった。
吉永さんとは2010年、16年、18年と交流を重ね、今年7月下旬に広島市内で開かれた原爆詩の朗読会で再会を果たした。吉永さんの「生ましめんかな」に耳を傾けた小嶋さんは、「平和な世界が訪れ、青空が見えるような明るい感じがした」とほほえんだ。隣で聴いていた大士さんも「原爆投下直後の広島の様子が浮かぶようで、その中で母が生まれたことはすごいと感じた」と話した。
栗原さんが生前、小嶋さんにかけてくれた言葉がある。「平和のために何も活動できていなくて心苦しい」と打ち明けると、「あなたが元気で生きていることが一番なんだから。大丈夫」と励ましてくれた。
それが支えとなり、現在は「生ましめんかな」で生まれた多くの縁をきっかけとした活動に一歩ずつ取り組んでいる。22年には栗原さんの直筆原稿などを紹介する展示会を知人の助産師とともに広島市内で開催。80年前、赤ん坊だった小嶋さんを取り上げてくれた助産師の故三好ウメヨさんの孫が会場を訪れ、思わぬ出会いに歓喜する一幕もあった。
今年の8月6日は、被爆建物の旧日本銀行広島支店であった平和イベントに出演した。年代も国籍も異なる初対面の6人が、即興で家族を演じ会話をするプログラム。小嶋さんはおばあさん役を演じ、「一人一人が自分の中にいつも平和を持っていないと、世界は平和にならない」と語りかけ、「今の赤ちゃんが私の年代になった時に、(世界が)どうなっているかと思うと不安。核が本当に使われないよう、原爆の怖さをみんなに知らせたい」と語った。
8日は店に10人以上が集まり、小嶋さんの誕生を知ったことがきっかけで助産師になった被爆者の神戸美和子さん(87)=東京都町田市=もオンラインで参加した。誕生日を祝福された小嶋さんは「元気でいなきゃいけません」と笑顔で応じていた。【根本佳奈】
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