沈黙破った82歳 記憶に焼き付く「二つの炎」 熊谷空襲から80年

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焼夷弾の破片が刺さった左肩の傷痕を指さす藤野進さん=熊谷市内で2025年7月17日午後3時42分、隈元浩彦撮影 拡大
焼夷弾の破片が刺さった左肩の傷痕を指さす藤野進さん=熊谷市内で2025年7月17日午後3時42分、隈元浩彦撮影

 敗戦前夜の熊谷空襲から間もなく80年。2歳8カ月で被災し、心ない言葉に長く沈黙を守ってきた埼玉県熊谷市星川の藤野進さん(82)が毎日新聞の取材に応じた。自身も負傷した生々しい記憶とともに、これまで語られることのなかった空襲後の「集団火葬」の光景を初めて証言した。「あんな体験は誰にも味わってほしくない」と言い添えて――。

 1945年8月14日深夜、約90機の米軍爆撃機B29が熊谷上空を覆い、まちを焼き払った。市の集計では市街地の3分の2が焼失、266人が命を奪われた。最も被害が甚大だったのは星川地区西端、かつて墨江町と呼ばれた一画で、町内だけで46人が亡くなった。藤野さんはその墨江町で生まれ育ち、今も住人である。

 「爆発音、まちが炎に包まれる光景、そして焼ける臭い。恐怖とともに五感に染みこんだ記憶です。忘れたくても忘れられません」。当時、父親は陸軍兵として北海道に出征。母親と1月に生まれたばかりの弟との3人暮らしだった。

 あの晩の記憶は「進、起きろ。空襲!」という母親の声で始まる。昼間のように明るかった。照明弾だった。弟を背負った母親に手を引かれて外に飛び出した。ほどなく焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ。目の前を流れる星川ではなく、南側の荒川方向に走った。浴衣のままで、げた履きだった。高崎線の線路を越え桑畑を抜けた。振り返ると我が家のある方角は火に包まれ真っ赤に染まっていた。言い知れぬ恐怖に襲われながら30分近く走ったのだろうか。荒川大橋の橋脚下にたどり着いた。

 数十年前、そんな体験を人前で話した。「幼少なのに、覚えているのはおかしい」という中傷の声に心が折れた。2度と口にするまいと誓った。

 「だってね」と言いながら、やおらシャツを脱ぐと左肩に指をやった。数センチほどの傷があった。「焼夷弾の破片が刺さりました。左足の付け根にも同じ傷痕があります。血があふれ、痛みとともに刻まれた記憶は今も鮮明です」。荒川大橋の下で、母親は血だらけのわが子の姿に驚き、懸命に破片を抜いた。

 「ずっと胸に秘めていた、もう一つの炎の光景があるんです」と言った。空襲の翌日だったか、数日後だったか、日にちははっきりしない。崩れ落ちた自宅から向かいの焼け野原を眺めると、焦げた木材が積まれ、その上に何十体もの遺体が並べられていた。僧侶らが読経するなか火がくべられた。人が焼ける何とも言えぬ臭いが鼻腔(びこう)をついた。「見るんじゃないよ」。優しかった母が大声を上げた。記憶はそこで途切れる。その後、「遺骨は大原墓地に改葬された」と人づてに聞いた。

星川の流れは戦災を機に変わった。藤野進さんは「焼け野原となったこのあたりで『二つ目の炎』を見た」と話した=熊谷市内で2025年7月17日午後5時10分、隈元浩彦撮影 拡大
星川の流れは戦災を機に変わった。藤野進さんは「焼け野原となったこのあたりで『二つ目の炎』を見た」と話した=熊谷市内で2025年7月17日午後5時10分、隈元浩彦撮影

 星川周辺では95人が亡くなったとされる。「秩父から運び込んだ棺おけに遺体を納めて近くの寺で火葬した」と証言する遺族がいる一方で、一家が全滅したり、家族が不在だったりした犠牲者の遺体がどう処理されたのかは分かっていない。

 熊谷空襲に詳しい同市立熊谷図書館副館長の大井教寛さんは言う。「無縁仏も含めて犠牲者の遺体、遺骨に関しての公式の記録はありません。空襲体験でさえ積極的に語る方はそうそういません。それほどつらい体験だったのです」。藤野さんが記憶を封印し続けてきたのも、そうした心情をおもんぱかってのことだ。「遺族の気持ちを思うとつらくてね」。藤野さんは沈んだ声だった。

 藤野さんの証言を裏付ける記録を探していた時、星川地区に建つ「戦災者慰霊之女神像」の完成に当たり、慰霊碑建立奉賛会が作成した記念誌の存在を知った。奉賛会会長のあいさつ文に目が吸い寄せられた。

 <見渡す限り焼け野原と化した炎天下の、星川べりや不動尊境内で、生き残った身内や、隣組の方々が、気力を失った状態で焼棒杭(やけぼっくい)を拾い集め、屍を火葬した煙のくすぶる、あの痛ましい情景が今でも瞼に焼き付いています>

 「不動尊」とは女神像の向かいにある円照寺のことだ。川辺良典住職(42)は「寺は空襲で全焼し当時の記録はありません。ただ、先代の父から、この辺りで集団火葬があった、と聞いています」と証言した。

 80年の時空を超えて藤野さんの記憶と重なり合った。

 「確かに私は2歳だった。でも、あの光景は幻ではない。誰にも名前を呼ばれず、灰になっていった人たちがいる。あんな経験はこりごりです」

 藤野さんが目撃した二つ目の炎。女神像はその記憶の地のすぐそばで、今も犠牲者の霊を慰め続けている。【隈元浩彦】

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