「大和大本営計画」の戦争遺構、一転保存へ 解かれた11年前の封印

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米軍管理下の大和海軍航空隊大和基地に武装解除された零戦がずらりと並んだ=1945年10月12日撮影、米国立公文書館所蔵、福林徹さん提供 拡大
米軍管理下の大和海軍航空隊大和基地に武装解除された零戦がずらりと並んだ=1945年10月12日撮影、米国立公文書館所蔵、福林徹さん提供

 奈良県天理市で太平洋戦争末期、旧海軍が建設していた本土決戦用基地「大和大本営計画」を知っていますか? 大戦末期の1945年、連合軍の本土上陸が現実味を帯びる中、最高指揮機関「大本営」を東京から奈良県に移す計画がありました。天理市の旧海軍「大和海軍航空隊大和基地」(通称・柳本飛行場)を舞台にした幻の計画は、旧陸軍が長野市に松代大本営を建設しているのにも関わらず立案されました。奈良県内でもあまり知られていない「大和大本営計画」、戦後80年の節目に保存へ向けた動きが加速しました。

全5回の1回です
第2回・犠牲空母悼む響き 愚かな作戦 遺族ら怒り
第3回・真珠湾英雄の遺産 米軍駐留の早期解除促す
第4回・「空襲あった」語り部訴え GHQ“創作美談”に副作用
第5回・「戦跡文化財」後進県を反面教師に

 「平和の尊さを語り継ぐため、大和海軍航空隊大和基地の遺構を整備する」。天理市の並河健市長は戦後80年の今年3月4日、基地跡保存を市議会で表明した。並河市長は11年前、「朝鮮人強制連行や慰安婦を巡る記述に抗議が寄せられた」として市の基地跡説明板を撤去した。同様の抗議は旧陸軍の松代大本営跡(長野市)にもあり、同市は説明板の表記を変更したが、天理市は基地の記憶そのものを封印した。このたびの方針転換の鍵は、京都の平和運動家が15年に発掘した基地の写真だった。

 基地は「第十三期甲種海軍飛行予科練習生(予科練)」訓練施設の一つとして1943年12月に開設。ところが44年9月ごろ、本土決戦用基地に変更され、約300ヘクタールと現在の大阪(伊丹)空港に匹敵する規模に拡張する工事が始まった。大戦末期、旧海軍は天皇遷座を視野に「大和大本営計画」を立案。松代大本営を建設していた旧陸軍の参謀次長、河辺虎四郎中将が45年7月12日の日誌に「海軍幹部から計画を伝えられた」と書き残している。

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 並河市長が保存を表明したのは天理市岸田町のコンクリート製防空壕(ごう)2基。地下の防空壕ではなく、地上に建てられた人員や物資のための防空施設で、いずれも長さ20メートル、高さ2・5メートル。他にも一部が露出している滑走路跡や、地下壕や軍事施設跡などが多数確認されている。ただあまり知られていないのが、排水のために張り巡らせた地下溝網だ。軟弱地盤だったために整備された。地元の建設会社社長、研谷誠一さん(75)によると、長さ300~500メートルの地下溝が4本以上あり、総延長は2キロ以上。基地用地は戦後の48年11月、地権者に返還され、地下溝のほとんどは水田の下に眠ったままだ。

戦跡として保存する方針が決まった大和海軍航空隊大和基地のコンクリート製防空壕跡=奈良県天理市岸田町で2025年5月9日午前10時35分、皆木成実撮影 拡大
戦跡として保存する方針が決まった大和海軍航空隊大和基地のコンクリート製防空壕跡=奈良県天理市岸田町で2025年5月9日午前10時35分、皆木成実撮影

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 この戦跡を平和に生かそうとする取り組みはこの80年間、教育関係者らの自主調査で行われてきた。その一人が元小学校教諭で、95年に15ページの論文にまとめた大和郡山市の長田(おさだ)光男さん(99)だ。大和基地跡を実測調査し、約30人の証言を集めた。大戦末期、旧陸軍二等兵として米戦車への肉弾訓練を受けていた長田さんは2016年のインタビューで「戦時中に青春時代を送った我々と違い、戦後世代に戦争を実感として伝えるのは難しい。戦跡で戦争の非人道性を感じ取ってもらうことが重要」と述べている。

 ところが天理市の現地では大和基地はタブー視されてきた。市の説明板にあった「朝鮮人強制連行」や「慰安所」など「子孫に語りたくない話」が戦中世代の口を重くし、人権問題に端を発した論争が結果的に戦争の記憶の風化を進めた。基地研究への反発もあり、95年10月に発行されたある戦史本は「基地勤務経験がある元下士官」証言を掲載。新聞報道された長田さん論文を「軍歴の浅い人物のデタラメ情報。大本営などという大がかりな基地でなかった」と論難する内容だった。

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 戦争の記憶を封印するこうした動きを止めたのが京都府亀岡市の平和運動家、福林徹さん(故人)が15年5月にワシントンの米国立公文書館で発見した終戦直後の米軍撮影の写真だ。特攻用の零戦などが多数並び、裏面には「YamatoNavalAirBase」(大和海軍航空基地)と明記。防衛省防衛研究所に残る「零戦43機、九三式中間練習機(通称・赤トンボ)67機残存」とする史料と一致し、本土決戦用基地であったことが明白になった。

 写真発見は15年8月20日付の毎日新聞奈良面で特報。続いて19年4月、市民団体が同写真を使った独自の説明板を現地に設置し、大和基地の封印を解く重要な役割を果たした。【皆木成実】

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