「雑誌を遺族会が全部回収して、焼いた」満州での“性接待”被害が明らかになるまでの「空白の73年間」 被害女性たちが声を上げられなかった“不都合な真実”とは

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〈 「お母さん、助けてお母さん」銃を背負ったソ連兵を一晩で何人も相手に…終戦直後の満州で“性接待”に差し出された女性たちの「消えないトラウマ」 〉から続く

 1945年、終戦直後の旧満州。岐阜県黒川村(現白川町南東部)よりの入植者からなる黒川開拓団の女性たちが「ソ連兵への性接待」という名目で性暴力を受けた。彼女たちの声を記録した映画『黒川の女たち』が全国でロングラン上映中だ。足かけ6年にわたり取材を続けた松原文枝監督がインタビューに応じ、当事者の女性たちの心の叫びを伝えてくれた。(全2本の2本目/ 1本目 を読む)

 黒川開拓団員の命を守るため、ソ連兵に差し出された女性たち。しかし彼女たちは日本に帰国後、感謝されるどころか、口さがない人々による誹謗中傷に遭う。

 黒川村で待っていた親族や隣人たちから謗られ、さらに、あろうことか命を救った団員たちからも卑しめられ、「恥」であるかのように扱われた。ある当事者の女性の手記には「満州にいる時より帰国してからの方が悲しかった」と記されていた。

 佐藤ハルエさんは、差別によって故郷を追われた。松原監督は語る。

「1995年に地元紙の記者が佐藤ハルエさんを取材しているんです。岐阜県郡上市にある『ひるがの開拓地』の開拓者たちに話を聞くという趣旨でした。戦後、雑木だらけだったひるがのを一から開拓して農業や酪農を始めた開拓者たち。そこに嫁いできた女性のほとんどが郡上市内の出身だった。しかしハルエさんだけが、ひるがのから鉄路で100キロほど離れた黒川村から嫁いできている。

『どうして?』と記者から問われ、『地元で差別を受けてここに嫁いできた』と。なぜなら満洲で『性接待』を強いられたからだと、ハルエさんは打ち明けた。そして、この『性接待』の事実を記事にしてもらえないかと記者にかけあったそうです。でも新聞社の内部事情から、実現しなかったんです」


佐藤ハルエさんと遺族会会長・藤井宏之さん ©テレビ朝日

「満州から帰ってきて汚れたような娘は誰ももらってくれん」と言われ…

 佐藤ハルエさんは帰国してひるがのに嫁いだ頃のことを、このようにふり返る。

「引き揚げ後、弟に『満州から帰ってきて汚れたような娘は誰ももらってくれん』と言われて、ここ(ひるがの)へ来たんです。ヒエとかアワとかで命を支えた。何もかも節約しながら生きたんです」

 荒地を切り拓き、貧しいなか働いて働いて、牛を育て、豪雪の中でも徒歩で牛乳を出荷した。なんとか人並みの生活ができるようになったのは、ひるがのに来てかなりの年月が経ってからだった。ハルエさんは続ける。

「満州で『死ぬか生きるか』を通ったんです。どんなことがあろうともここは日本だから、苦しいとは思いません。幸せだと思いました。主人も満州からの引き揚げですので、何もかもわかって、理解してくれました」

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