やなせさんの心をつかんだ「普通の食事」
『アンパンマン』の作者、やなせたかしさんと妻の暢(のぶ)さんの人生をモデルにした、2025年前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』の第100話の最後では、次週の21週目の予告が流れました。そのなかで話題になったのは、乃木坂46の久保史緒里さん演じる歌手「白鳥玉恵」の登場です。久保さんは念願の朝ドラ初出演となりました。
白鳥は「柳井嵩(演:北村匠海)」が作詞した、名曲「手のひらを太陽に」を歌う歌手として登場します。彼女は最初に「手のひらを太陽に」を歌った、女優で歌手の宮城まり子さんがモデルです。
宮城さんとやなせさんの出会いは、やなせさんがミュージカル『見上げてごらん夜の星を』(1960年初演)に参加して、作曲家のいずみたくさん(大森元貴さん演じる「いせたくや」のモデル)と仲良くなるよりも前のことでした。
1958年5月、やなせさん宅に宮城さんから1本の電話が入ります。
「もしもし、まり子です。先日はありがとう。お願いしたいことがあるの。車回すからうちへ来てくれへんか」(やなせさんの自伝『人生なんて夢だけど』より引用)
漫画家以外にさまざまな仕事をしていたやなせさんは、それ以前に雑誌の仕事で宮城さんにインタビューをしており、一応の面識はあったものの、このいきなりの電話には驚いたといいます。宮城さんは歌手として「毒消しゃいらんかね」(1953年)、「ガード下の靴みがき」(1955年)などのヒット曲を世に出していた有名人で、やなせさんも大ファンだったそうです。
ドキドキしながら宮城さんの家に行ったやなせさんは、そこで意外な体験をしました。売れっ子の宮城さんの自宅は簡素なたたずまいで、部屋は「なんとなく少女っぽい」雰囲気だったそうです。
宮城さんはやなせさんを部屋に通すと、まず「ご飯食べよ」と言い、やなせさんはその言葉に「グラリ」となってしまいました。さらに、宮城さんは卵焼き、塩鮭、みそ汁、たくあん、といった庶民的なメニューを出してきたそうです。やなせさんは「これにはやられてしまった。ぐっと親近感が増して、この人のためなら何でもしようと思ってしまった」(自伝『アンパンマンの遺書』より引用)と、当時の気持ちを振り返っています。
その後、宮城さんは自身の初リサイタルの構成台本の仕事を依頼してきました。やなせさんはまだ構成の仕事の経験はありませんでしたが、宮城さんのとりこになっていた彼は依頼を引き受けます。リサイタルは短いミュージカルとヒットソングのメドレーを合わせた構成で、やなせさんは『不思議の国のアリス』のパロディーミュージカルの台本を書いたそうです。
やなせさんはその後も何度か宮城さんと仕事をして、司会や作詞、衣装デザインも経験し、多くのことを学んだといいます。
『アンパンマンの遺書』では、自分に特に師匠はいないと前置きしつつ、
「しかし、ひとり選ぶとすれば或いは宮城まり子かもしれない。構成も、作詞も、演出も、ぼくは宮城さんに教えてもらった。べつに講義は聞かなかったが、見ていておぼえた。今眼の前にいる観客のハートをつかむということでは天才的な人だった」
と語っていました。
その後、やなせさんはいずみさんと宮城さんを引き合わせて、さまざまな曲やミュージカルを作ります。そして、1961年にやなせさん作詞、いずみさん作曲の「手のひらを太陽に」が誕生し、やなせさんが構成を担当していた日本教育テレビ(後のテレビ朝日)の朝のニュースショーで、宮城さんが初めて同曲を歌唱しました。宮城さんは1962年のNHK『みんなのうた』でも「手のひらを太陽に」を歌い、彼女の代表曲のひとつとなっています。
やなせさんをメロメロにし、大きな影響も与えた宮城さんがモデルの白鳥は、『あんぱん』21週目でどのように登場するのでしょうか。予告では嵩の親友「辛島健太郎(演:高橋文哉)」の「女にももてとるばい」というセリフや、妻の「のぶ(演:今田美桜)」の不機嫌そうな顔も流れており、白鳥の登場で柳井夫妻の仲に何かしらの影響が出る可能性も考えられます。
嵩も彼女に、「グラリ」となってしまうのかもしれません。
参考書籍:『人生なんて夢だけど』(フレーベル館 著:やなせたかし)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店 著:やなせたかし)、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋 著:梯久美子)
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