1990年11月に始まった長崎県雲仙・普賢岳噴火災害で対策に奔走し「ひげの市長」として知られた同県島原市の元市長、鐘ケ江管一(かねがえ・かんいち)さんが22日、死去した。94歳。通夜・葬儀は未定。
80年から島原市長を3期12年務めた。普賢岳噴火災害では、91年6月3日にあった大火砕流で死者・行方不明者43人が出たことをきっかけに同7日、住民を自宅や職場から法的に強制退去させる「警戒区域」を全国で初めて市街地に設定。災害における損失補償の問題をクローズアップさせるなど大きな波紋を広げた。一方で、その後の人的被害は最小限に食い止められた。
「ヤマが収まるまでひげはそらない」と決め、防災服姿で陳情や災害復旧に奮闘する姿は「復興の象徴」として全国に伝えられた。
92年12月に市長職を退いた後は「災害時に受けた支援へのお礼と島原の経験を伝えたい」と全国各地で講演行脚を続けた。講演回数は1000回を超えた。2001年には功績が認められ勲四等瑞宝章を受章。02年からは雲仙岳災害記念館(島原市)の名誉館長を務めた。
「ひげの市長」は「愚直」
「愚直」という言葉が、いい意味で当てはまる人だった。
鐘ケ江管一さんといえば「ひげの市長」。知事から「天皇陛下が島原におみえになるからそったらどうか」と忠告されても伸ばし続けた。1992年12月に長崎県島原市長を退任した翌日、ひげを落とす「剃髭式(ていししき)」をしたら、28センチもあった。
翌年からは、全国を講演して回った。講演で受け取った花束は、必ず犠牲者の追悼碑にささげてきた。
いずれも根底にあったのは、大火砕流で43人が犠牲になった91年6月3日の、痛恨の体験だった。
市長だった鐘ケ江さんはその日、普賢岳に向かう途中で猛烈な腰痛に襲われた。はり治療中の午後4時8分に雷のような音。山が真っ暗だった。それから1週間は不眠不休で対策に追われ、気がつけば鏡の中にはやつれ果て、ひげが伸び放題の自分がいた。
「自分もあの黒煙の中にいたはずなのに……。どうして自分は生き残ってしまったのか」。その問いに対する答えが、普賢岳の経験を語り継ぐことだった。
私自身、鐘ケ江さんの講演に大きく影響を受けた一人だ。1年生記者だった96年、宮崎で講演を聞いた。私は神戸市出身で、阪神大震災では同級生と恩師を亡くしたものの、当時は災害報道に携わる考えはなかった。だが、鐘ケ江さんの姿に「自分も災害を語り継がねば」と考えを改め、以来、毎年島原への異動を希望した。
いつだったか忘れたが、鐘ケ江さんが名誉館長を務める雲仙岳災害記念館(島原市)で会った時だった。風邪でぼーっとしている私に「気概ですぞ、気概。私は市長の時は12年間で2日しか休みませんでした」と活を入れてくれた。「気概」という、どこか古さを感じさせる言葉に、未曽有の災害に立ち向かった鐘ケ江さんらしさを垣間見た気がした。
市長退任の記者会見で「43人の十字架を一生背負います」と語った。その言葉通り、一度決めたら愚直なまでに徹底する人生だった。【山崎太郎】
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