父から兄貴へ受け継がれた信頼の「強打の日大三」 夏の甲子園

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練習を見つめる日大三の小倉全由・前監督(右)と三木有造監督=兵庫県西宮市で2025年8月22日、西夏生撮影 拡大
練習を見つめる日大三の小倉全由・前監督(右)と三木有造監督=兵庫県西宮市で2025年8月22日、西夏生撮影

 日大三の野球は、どこか昭和の匂いがする。

 全国高校野球選手権でチームを率いる51歳の三木有造監督の指導方針は「ガッツ・気合・根性」だ。「打席に立てば、最後は気持ちがすべて」と考える。

就任1年目で西東京大会を戦った日大三の三木有造監督をねぎらう小倉全由・前監督=神宮球場で2023年7月29日、三浦研吾撮影 拡大
就任1年目で西東京大会を戦った日大三の三木有造監督をねぎらう小倉全由・前監督=神宮球場で2023年7月29日、三浦研吾撮影

 一方で、エースの近藤優樹(3年)を「コンちゃん」と呼び、選手交代に悩めば選手に相談して決めることも多い。選手からは「三木さん」と呼ばれる。

 選手間では下級生に敬語を使うよう求めておらず、入ったばかりの選手が驚くほど、気軽に話し合える。チームの雰囲気は「昭和の匂い」とは無縁だ。

第83回大会で夏の甲子園初優勝を飾った日大三の小倉全由監督=阪神甲子園球場で2001年8月22日、北村隆夫撮影 拡大
第83回大会で夏の甲子園初優勝を飾った日大三の小倉全由監督=阪神甲子園球場で2001年8月22日、北村隆夫撮影

 それは小倉全由(まさよし)前監督(68)と一緒に築いてきたものだ。

 日大三では捕手としてプレーし、東洋大を卒業した三木監督は、同じ東京の強豪・関東一から1997年に日大三にやってきた小倉さんを、その年からコーチや野球部長の立場で支えてきた。

 2001、11年に夏の甲子園優勝に導いた小倉さんが23年春に退任する際は「小倉さんあっての指導者人生」と考え、一緒にやめるつもりだった。しかし、残された選手への責任も感じて後任監督を引き受けた。

 実績を残した前任者からバトンを引き継ぐことには「重圧は全くなかったですね」と話す。そう思えたのは、「土台」が固まっている安心感があったからだ。

 強固な土台の一つが、「強打の三高」と呼ばれる野球スタイルだ。それが全国に知れ渡ったのは11年夏。全6試合で2桁安打を記録し、4試合で2桁得点と打ちまくった。

 当時2年生で、背番号13を付けて準決勝で先発登板した斉藤風多さん(30)は「投手だろうが関係なく、とにかくバットを振りました」と振り返る。指導してくれた2人については「小倉さんがお父さんなら、三木さんは兄貴って感じでした」と表現する。

第94回大会1回戦の聖光学院戦で先発した日大三の斉藤風多=阪神甲子園球場で2012年8月11日、久保玲撮影
第94回大会1回戦の聖光学院戦で先発した日大三の斉藤風多=阪神甲子園球場で2012年8月11日、久保玲撮影

 今の3年生は入学時から三木監督体制で過ごした最初の年代で、三木監督は「私にできることは、練習量を増やすことくらいなので」と事もなげに言う。

日大三の三木有造監督=阪神甲子園球場で2025年8月21日、長澤凜太郎撮影 拡大
日大三の三木有造監督=阪神甲子園球場で2025年8月21日、長澤凜太郎撮影

 伝統の強打をパワーアップさせ、「今年の3年生は特に練習しました」と言い、主将の本間律輝(3年)は「どこよりもバットを振ってきた」と断言する。

 今大会は初戦こそ4安打にとどまったが、その後は15安打、9安打、12安打と代名詞の「強打」は健在だ。4番の田中諒(2年)は24年春に低反発バットが導入されて以降、甲子園大会で初めて複数の本塁打を放った選手になった。

 甲子園で迷いなく強振する日大三のベンチの最前列には、時に笑顔で指示を出す三木監督がいる。選手と監督が家族のように信頼し合いながら白球を追う姿は、「長い夏」になった今年も、前体制と変わらない。【川村咲平】

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