
東京電力福島第1原発事故で一時全町避難となった福島県浪江町で、ニンニクを使ったユニークなコーラシロップが誕生した。使われているのは「サムライガーリック」と命名されたニンニク。帰還後に新たに農業を始めた一人の女性が栽培する。ブランド名には、原発事故で失われかけたこの地に息づく食と馬の文化への深い愛情が込められている。
「実は馬に乗るのは苦手なんです。子どもの頃から馬は大好きなのに……」
吉田さやかさん(38)はそう言って照れ笑いする。吉田家は旧相馬中村藩で半農半士の郷士(ごうし)を務め、明治以降は稲作と養蚕を営んだ。
騎馬武者たちによる伝統行事「相馬野馬追(のまおい)」(国指定重要無形民俗文化財)には代々参加しており、築150年の自宅は甲冑(かっちゅう)や旗指し物がずらりと並ぶ。現在も6頭の馬を飼育。吉田さんも「女性は未婚の20歳未満」という条件(2025年に撤廃)を満たしていた時は出場したが「祖父が軽い甲冑を作ってくれたけど、何度か落馬してしまって」。
11年3月の原発事故で一家は福島市に避難。「当時はたまたま馬を飼育していませんでしたが、馬と一緒に避難した皆さんは本当に大変だったそうです」。震災を機に東京・浅草でインバウンド(訪日外国人)向けの甲冑着付け体験で起業するなどした後の20年、既に避難指示が解除されていた浪江町の中心部に移住した。

震災発生時まで住んでいた自宅がある浪江町室原は23年3月に「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)となってようやく帰還がかなったが、自宅は獣害で荒れ果て、農地は除染で肥沃(ひよく)な土壌がごっそりはぎ取られていた。そんな状況を目の当たりにして「先祖からの土地を守りたい」と新規就農を決めた。選んだのはニンニクだった。
ニンニクは、豊臣秀吉が精をつけるためかじって戦場に臨んでいたと伝わるほど戦国武将が好んで食べた。加えて浜通り地方では、黒潮に乗って北上するカツオが盛んに食べられ、特に武家では「勝つ男」の当て字で重宝された。
カツオの食べ方は、すり下ろしニンニクじょうゆが好まれた。かつては各家庭が庭先でニンニクを自家栽培し、専業農家は必要ないほどだったという。だが原発事故によって自給自足が崩れた。「あらゆる意味でこの地を象徴する食材。浜通りの食文化を守りたい」との願いを込めた。
やせ細った農地をよみがえらせるため着目したのは、地域で豊富に出て、かつては当然のように活用されていた馬ふんだ。堆肥(たいひ)として使用するには数年の発酵期間が必要で、農業の近代化に伴い着目されなくなっていたが「馬と共に築かれてきたこの地の暮らしと持続可能性を知ってもらうには最適」と積極活用している。
吉田さんは20年に浪江町中心部で土地を借りるなどして農業を始め、自宅周辺の避難指示が解除された23年から本格的にニンニクの有機栽培を始めた。「この地の武士の文化と食文化を一粒のニンニクで世界に伝える旗印に」とブランド名に「サムライ」を冠した。
栄養豊富な堆肥で育てたニンニクは、パンチの利いた香りとまろやかでこくの深い味わいが評判となり、地元ではすぐ完売する人気ぶり。首都圏にも出荷している。
このニンニクを、コーラの原液にした。ニンニクを発酵させてドライフルーツのように食べやすくしたのが黒ニンニクで、その加工過程で出てしまう規格外品の活用策を模索していた。
県内のピザの有名店がシナモンやレモンを使ったクラフトコーラで人気を集めていることを知り、黒ニンニクでも作れるかを相談。ニンニクシロップの商品化に至った。シロップを炭酸水で希釈すると、強烈な香りと濃厚なうまみが同時に楽しめる「ニンニクコーラ」となる。
吉田さんは「力強さと優しさを併せ持つニンニクで、震災から立ち上がる浪江の姿を表現したい」と意気込む。問い合わせはウェブサイト(https://samuraigarlic.jp/)へ。【錦織祐一】
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