北海道斜里町の知床半島にある羅臼岳で男性登山客を襲ったヒグマは、地元ではよく知られた個体だった。
「人に無関心で、安全と言われていたベテランの母グマがなぜ」。知床を何度も訪れた観光客は驚きを隠さない。
観光の大前提である安全が揺らぎ、世界自然遺産・知床は岐路に立たされている。
東京都の自営業・中島拓海さん(46)は昨年、知床半島を4回訪れ、原生林の散策などを楽しんだ。10月には斜里町の山あいで車道を歩くヒグマを目撃。なじみのガイドに尋ねると「『岩尾別の母さん』ですね」と伝えられた。
「何度も子を育てたベテランだと聞いた。車ですれ違ってもこちらには関心を向けなかった」
そのヒグマが山中で男性を襲ったとガイドから一報を受け驚いた。同時に「自分も含め、知床全体で動物との距離感がまひしていた」と思い至った。
原生林をガイドと歩く際、「知床のヒグマはエサが豊富だから人を襲わない」と聞き、何となく納得していたこと。森の中で出合うシカやキツネは警戒心が薄く、人慣れしていたこと――。
今となっては「事故が起きないという思い込みが、動物との距離を誤らせたのでは」と感じる。
加害個体の母グマは体長140センチ、体重117キロの11歳で、2頭の子グマとともに駆除された。野生生物の調査研究を行う知床財団は母グマを「SH」という識別コードで記録していた。
知床のヒグマ目撃情報は2025年、592件(8月21日現在)に上るが、SHとみられる個体は岩尾別地区を中心に30件以上の目撃情報があり、5月以降には2頭の出生も確認されている。
羅臼岳では、10日に2頭の子グマを連れて登山道を登ってきたヒグマが登山者に接近。登山者がクマ撃退スプレーを構えて後退する事態が発生した。12日にはヒグマ1頭が登山者からクマ撃退スプレーを噴射されながらも、5分間にわたりつきまとった。いずれもSHの親子とみられるという。
SHは過去にも人を避けなかったり、人と出合っても逃げなかったりという行動が度々、確認されており、知床財団は追い払い対応を繰り返したという。
知床財団は、餌付けされていたとの情報が一部のインターネット上で出回っていることに対し「事実が把握されたものではない」としている。
一方で、ガイドや愛好家の間で人前によく現れるヒグマに愛称が付けられていることに対し「呼称は自由だが愛玩動物ではない。愛称が付くほど人と近く、距離感が失われた個体になってしまう可能性はある」と指摘した。
その上で、「ヒグマ保護管理に取り組んできた財団としても重大で深刻な事案。環境保全、観光利用、住民生活に大きく影響する。事故の検証、再発防止に必要な情報提供、安全対策に積極的に提言していく」としている。【本多竹志、後藤佳怜】
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