「浮島丸殉難80周年追悼集会」が24日、爆沈現場の舞鶴湾を望む「殉難者追悼の碑」(京都府舞鶴市佐波賀)の前であった。主催した市民団体「浮島丸殉難者を追悼する会」の品田茂会長(66)は、戦後80年が経(た)った現在も爆沈の原因、犠牲者数に疑問が残り、280柱の遺骨の返還も実現していない現実を指摘。「日本、日本人の歴史的課題として、残された課題を解決する責任が私たちに課せられている」と訴えた。【塩田敏夫】
浮島丸事件は、敗戦直後の1945年8月24日、舞鶴湾で起きた。青森県から帰郷する朝鮮人労働者らを乗せた旧日本海軍の輸送船「浮島丸」(4730トン)が爆発、沈没した。日本政府の発表では、乗船者は乗客の朝鮮人3735人、乗組員255人の計3990人、死亡者は乗客524人、乗員25人とされた。だが乗船者、死亡者数についてはさまざまな説がある。
日本政府は「乗船者名簿は存在しない」としてきたが、フリージャーナリストの布施祐仁さんが情報公開制度を使い、2024年にその存在を明らかにした。布施さんによると、韓国政府は乗船者名簿のデータベース化を進めており、乗船者名簿に記載されていないが青森県で軍属として働き、浮島丸に乗船して死亡したとみられるケースなどについても、今後事実関係の究明が進む可能性がある。
「追悼する会」は、「未解明な部分が多い事件をそのままにしてはいけない。歴史的事実を明らかにしてこそ真の友好につながる」と、戦後80年の今年から事件の関係者たちへの聞き取り調査を始めた。舞鶴で起きた悲劇を後世に伝えるためで、証言集としてまとめ、12月に報告集会を開く予定だ。
追悼集会には330人が参列。犠牲者に黙とうをささげた後、品田会長が追悼の辞を述べた。爆沈から20年後の65年から舞鶴市民が始めた追悼の歴史を振り返り、「爆沈は明治以降の日本の植民地支配や侵略戦争がなければ起こっていない。戦後80年が経っても、爆沈については未解決の課題が山積している」と指摘した。
その上で「現在、世界のいたるところで戦争や紛争が起こされ、軍拡の動きも強まっている」とし、「愚かな戦争を再び起こさないために歴史を真摯(しんし)に学ぶことを通じ、戦争への危険な動きには何よりも敏感でいたい。戦争を起こさないためには何をすればいいかを世界中の人々と考え、語り合い、共に平和を求める声を上げ続けたい」と訴えた。
舞鶴市の鴨田秋津市長も参列。事件発生時に地元の佐波賀の住民が懸命に救助活動をしたことを振り返り、「こうした悲しい出来事が人々の記憶から徐々に薄れていくことを危惧する」と述べた。西脇隆俊知事もメッセージ(代読)を寄せ、「戦争の悲惨さ、平和の大切さを未来を担う次の世代に語り継いでいく」との決意を表明した。
この後、京都朝鮮中高級学校の生徒が追悼歌「はまなすの花咲きそめて」を歌い、参列者が爆沈現場の海に向かって献花した。
「少しでも事実知りたい」 初参列の乗組員遺族
浮島丸の乗組員の遺族、高橋智子さん(53)=東京都=が初めて追悼集会に参列した。
高橋さんによると、義父洸一さんのおじの正雄さんが浮島丸の乗組員で、爆沈で亡くなった。洸一さんは正雄さんにかわいがってもらい、正雄さんの資料を持っていたが、2年前に死亡。高橋さんの夫俊一郎さん(59)が資料を引き継いだ。
義父が亡くなるまで浮島丸事件については知らなかったが、今年4月に俊一郎さんとともに舞鶴を訪れ、爆沈現場に立った。「少しでも事実を知りたい」と、「追悼する会」にも入会した。
高橋さんは「浮島丸事件はわからないことばかり。遺族として(正雄さんの)最期がどうだったのか、少しでも知りたい」と語った。
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