守護神は「名門高校サッカー部」出身 金狙うデフリンピック日本代表

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夢だった国立競技場のピッチに入場するデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時52分、川村咲平撮影
夢だった国立競技場のピッチに入場するデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時52分、川村咲平撮影

 同じ「日本代表」でも、扱いは全く別物だった。

 デフサッカー日本代表の主将でゴールキーパー(GK)の松元卓巳選手(35)は、日が当たらなかった時代を知っている。

 だからこそ、「代表」に人一倍強い誇りを持っている。【川村咲平】

ユニホームに着替えられる幸せ

 今でも思い出すと、涙があふれる。

 今からおよそ2年前のことだった。デフサッカー日本代表チームが宮崎県の合宿地に向かう途中、一人の若手選手がバスの車内でスマートフォンを眺めていると、あるネットニュースを見つけた。

喜びの表情で試合前の記念撮影に臨むデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(後列右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時59分、川村咲平撮影
喜びの表情で試合前の記念撮影に臨むデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(後列右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時59分、川村咲平撮影

 デフ代表チームに、日本代表と同じ「サムライブルー」のユニホームが支給される、という内容だった。

 車内は騒然とした。宿舎に到着したとき、サプライズで発表される予定だったことを後から知った。

 宿舎には、ユニホームだけではなく、バッグや部屋着、靴下まで用意されていた。涙が止まらなかった。

 従来は自前のユニホームが1着だけ。試合中はハーフタイムに下着だけ着替えて、汗でぬれたユニホームを再び着てピッチに戻っていた。

 今は、乾いたユニホームに着替えられることが幸せだ。

抵抗感があった手話

 福岡県出身で、生まれつき両耳の聞こえが悪かった。

 聴力は「重度難聴」にあたる100デシベル。補聴器を着ければ何とか会話ができ、普通学級に通った。

手話を交えながらインタビューに応じる松元卓巳選手=東京都内で2025年6月24日午前11時19分、川村咲平撮影
手話を交えながらインタビューに応じる松元卓巳選手=東京都内で2025年6月24日午前11時19分、川村咲平撮影

 幼い頃からサッカーが大好きで、ボールを蹴るために宿題を急いで終わらせる少年だった。

 「目立つのが好き」とGKを選び、「鹿実」こと鹿児島実業高に進んだ。全国高校選手権で2度の優勝を誇る強豪だ。レギュラーを目指して寮生活を送りながら必死に取り組んだ。

 そんなとき、デフサッカーと出合った。補聴器を着けてスーパーで買い物している姿をデフ協会関係者が見つけ、高校を通じて誘われた。

 高校2年で初めてデフ代表の活動に参加したが、戸惑いの連続だった。

 年に数回行われる合宿の宿舎は大部屋で、雑魚寝が当たり前。芝生のグラウンドを使用できる機会はほとんどなかった。

 間借りしたある小学校のグラウンドは、サッカーコート1面を確保できる広さがなかった。仕方なく、いびつな形のグラウンドを最大限広く使うため、「く」の字のように途中から斜めに曲がった線を引き、ピッチを作った。

 コミュニケーションにも苦しんだ。生まれて初めて手話が必要な仲間に囲まれ、うまく会話ができなかった。

 本来は同じ境遇のはずが、疎外感があり「最初は1、2年で辞めるつもりだった」。

 転機になったのは、大学生で初めて臨んだ国際大会だった。「絶対に自分の方が実力がある」と自信があったのに、試合に出場できなかった。

 大会が後半にさしかかった頃、宿舎の監督室に呼ばれ、こう言われた。

国立競技場での試合を終え、来場者に手話を交えてあいさつするデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後8時59分、川村咲平撮影
国立競技場での試合を終え、来場者に手話を交えてあいさつするデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右端)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後8時59分、川村咲平撮影

 「今はまだ仲間と出会ったばかり。将来は主将になれる存在だ」

 自分の未熟さに気づき、仲間と向き合う意欲が芽生えた。

 「使ったら(自分を障害者と)認めてしまう」と気後れしていた手話を本格的に習い、少しずつ意思疎通ができるようになった。

 数年後、不動の守護神として定着すると、チームの実力も徐々に高まっていった。

 主将として初めて「サムライブルー」のユニホームを着用して臨んだ23年9月の世界選手権(デフサッカー・ワールドカップ)で、初のメダル獲得となる準優勝を達成した。

 個人としても時間が許す限り、講演会や体験会に出向いた。地道な活動が徐々に実を結び始めた頃、ろう者にとって最高の舞台である「デフリンピック」の日本開催が決まり、さらなる追い風が吹いた。

デフ代表として初めて国立で試合

 今年4月、松元選手の姿はサッカーの聖地、国立競技場のピッチにあった。デフリンピックに向けた機運醸成の一環で、デフ代表として初めて国立で試合をする機会に恵まれた。

あふれる涙をこらえながら、手話で国歌斉唱するデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右から2人目)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時55分、川村咲平撮影
あふれる涙をこらえながら、手話で国歌斉唱するデフサッカー日本代表の松元卓巳選手(右から2人目)=東京・国立競技場で2025年4月2日午後6時55分、川村咲平撮影

 試合前、手話で国歌斉唱すると涙があふれた。斜めに線を引いた小学校のグラウンドから、国立にたどり着くまでの時間が脳裏をよぎった。

 信じられないほどデフサッカーの環境は変わったが、世代間の認識に差も感じている。

 例えば、ユニホームのたたみ方。丁寧にたたむベテラン選手と対照的に、一部の若手選手が無造作に放置している姿を見かけて注意したことがあった。

 「今の環境は土台を作ってくれた先人のおかげ」

 感謝を次代につなげ、デフサッカーを発展させる責任を感じている。11月に開かれる母国開催のデフリンピックでの金メダルが、未来への大きな一歩になる。

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