東京・赤坂に本社を構えていた広告会社「東急エージェンシーインターナショナル(現東急エージェンシー)」に転職したのは25歳だった1976年。CBS・ソニーレコード(現ソニーミュージック)の洋楽専門のコピーライターとして、ロック、ジャズ、フレンチポップスなど毎月40枚くらい出る新譜を朝から晩まで聴いて、掲載する雑誌に合ったコピーを数十本書いていました。
翌年にピンク・フロイドが発売した名盤「アニマルズ」は、英国の工場街の上空を豚の形をしたバルーンが飛んでいるジャケットのデザインから「豚が空を飛ぶ」というコピーを付けました。今では懐かしい思い出です。
第一企画(現ADK)に籍を置いた時期もありましたが、78年8月にCBS・ソニーから分かれた「EPICソニー(現エピックレコードジャパン)」が誕生。同レーベル専任のコピーライターとして「東急…」に戻ることになりました。後に、佐野元春らが所属することになる勢いがあるレーベルで、ここでシャネルズ(後のラッツ&スター)との出会いが待っていました。
この頃並行して男性向けのファッション誌「LA VIE(ラ・ヴィ)」の創刊に向け、社内のアメフト部で出会ったグラフィックデザイナーの出久根正彦さんに誘われ動き始めました。
青山や原宿のマンションの一室で創業し、企画や縫製を行う異端のアパレルブランドが誕生した70年代。菊池武夫「BIGI」、三宅一生「イッセイミヤケ」など、後にDCブランドと呼ばれる人たちの作品を世の中に伝える媒体が極端に少ない時代でした。渋谷に編集部を置いた僕らは「見栄えはメジャー。中身はサブカルチャー」をテーマに、これまでにない雑誌を作るために奔走。真っ先に原稿の執筆をお願いしたのが音楽・映画評論家の今野雄二さんでした。
僕が女の子だったら「こういう人と付き合いたい!」と思うほど好きで、ロールモデルにもしていた人物。執筆依頼のために招かれたご自宅で、ピンク色の寝室を見せてもらった時は「凄い!」と驚きました。
三宅一生さんが表紙の雑誌はこの年の12月に創刊。誌面を飾っていく人物たちが世界で名を上げていく様子を憧憬(しょうけい)の眼差(まなざ)しで見つめている自分がいました。
高橋幸宏さんが寄稿してくれたコラム「BRAZILは地球のウラ側!」もあって、そこでは「世界的情報都市TOKYOだからこそ生まれる加工貿易型のファッショナブル、テクノロジー、サウンドが登場する予感がしている」と記しています。
音楽の世界では翌79年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)がファーストシングル「テクノポリス」で♪TOKIO TOKIO――と連呼。東京が、時代が変わっていくことを感じていました。
◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。
【売野雅勇 我が道10】コピーライターで多忙を極めた毎日 今では懐かしい「豚が空を飛ぶ」
I want to comment
◎Welcome to participate in the discussion, please express your views and exchange your opinions here.
Comments