空襲によって熊谷が焼け野原になった日。そして終戦から80年を迎えた15日、埼玉県熊谷市中心部では「平和の鐘」が鳴り響いた。市内の戦時中の直接体験世代は1割にまで減少。戦禍の記憶の継承が難しくなっている中、市民らによる「平和展」が市内で開催され、若い世代も足を運ぶ。鐘の響きのように、記憶を受け継ぐ輪が広がってほしい――。関係者らの願いでもある。【隈元浩彦】
「カラン、カラン」。真夏の日差しの下、正午の時報を合図に、熊谷市中央公園の鐘が静かに打ち鳴らされた。80年前のこの日、少なくとも266人の死者を出し、市街地の大部分が焼け野原と化した。参加者約50人は鎮魂と平和への願いを込めて頭を下げた。
式典では実行委員長の林真佐子さんが「熊谷で起きたことを過去に埋めてはならない。若い世代にしっかりつないでいきたい」と呼び掛けた。だが、集まった市民の多くが高齢世代。県内で唯一「戦災都市」(全国115都市)に指定された熊谷の悲劇は語り継がれていくのだろうか。
その記憶を語りうる直接体験者は確実に減っている。市庶務課によると、8月1日現在の市人口(外国人を除く)は18万4555人。このうち終戦翌年の1946年以降に生まれた80歳未満を「戦後生まれ」とすれば16万5434人で全体の89・6%、これに対して80歳以上の「戦前・戦中世代」は1万9121人で10・4%にとどまる。体験を記憶しているとなれば、既に総人口の1割を切っているとも考えられる。
参列者の数少ない若者の中に、市の社会科副読本に採用された「戦跡地図」の作成に携わった立正大大学院生の本多一貴さん(24)の姿があった。「戦争と平和の問題については、政治的立ち位置と絡めて語られがちで、若い世代の中には『タブー視』する傾向にあると感じている」と語った。
こうした中、市内の八木橋百貨店では「平和展 最後の空襲・熊谷」が開かれている。市民団体「熊谷空襲を忘れない市民の会」などの主催。同店8階の大ホールを使い、市民主催の平和展としては異例の規模だ。空襲直前の熊谷の様子、被災状況、体験者の声がパネルや映像で紹介され、戦時下の暮らしを物語るポスター、雑誌など約1000点の資料が並ぶ。
注目を集めていたのが「市民の会」事務局長の吉田庄一さん(71)が作成した熊谷空襲の背景を解き明かしたコーナー。米軍、日本側の資料を元にB29の大編隊が「照準点」に定めた地点について、星川の円照寺付近であることを解析した地図は多くの来場者が見入っていた。
来場者の中には若者世代も。桶川市から訪れた熊谷高2年の富岡楽歩(がくと)さんは「ポツダム宣言を受諾した後の空襲だったことが分かりました。それを思うと……」と話した。
来場者に声を掛けて解説する吉田さんは「私たちの目的は記憶の継承。若い世代が熱心に見てくれています。悲観していません」と力を込めた。
同展は18日まで。16、17の両日には、本多さんら若い世代による研究発表が行われる。
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