房総半島上に広がる青空で80年前の8月15日の午前、空中戦が繰り広げられた。
一面の緑に包まれた千葉県一宮町の郊外。地元の郷土史研究家、久野一郎さん(69)=同県茂原市=は「のどかな異国の農村地帯が最後の眺めになるとは、考えてもみなかったのでは」と一人の若者に思いをはせ、視線を空から地上に移した。低山に囲まれた水田では、稲がすくすくと伸びていた。
◆ ◆
空中戦は、太平洋上の空母を飛び立った連合国軍機編隊と日本の迎撃機によるものだった。戦闘機に乗っていた英海軍のフレッド・ホックレー少尉は撃墜され、捕虜になった。
複数の地元住民の目撃証言がある。「縛られていたが、リラックスしていたとのこと。戦争が終わることを知っていたのでしょう」と久野さん。正午を迎え、ポツダム宣言受諾の玉音放送が流れた。
だが陸軍の駐屯部隊はホックレー少尉を連れ回したうえで、夜に軍律会議などの手続きなしに銃殺した。誰の指示だったかは、はっきりしていない。
当時20歳そこそこの青年の、最後の地をたどった。
久野さんは山あいの集落の奥を指さし、「落下傘で降下し、あの細い農道を歩いてきたそうです」。捕虜となった集落、陸軍部隊が駐屯していた小学校、寺院、尋問が行われた民家。そして、「あれが『処刑』のあった山林です」。
かつての農道は舗装され、正確に足跡をたどることは難しい。しかし、一宮町事件と呼ばれる歴史の「現場」は、確かに残されていた。
◆ ◆
久野さんが事件に深く関わるようになったのは2001年2月。一宮町の隣、睦沢町の歴史民俗資料館学芸員として、戦争体験の証言集発行などに携わっていた。
それを知った元一宮町民が「10歳の時に、捕虜が銃殺されるのを見た」と相談に訪れた。「父親に口止めされていたそうで、心に深い傷を負っていました」と振り返る。
そこから、久野さんの聞き取り調査が始まる。筑波大の学生時代からフィールドワークは得意。「あの山林にパラシュートが落ちていった」「この道をリヤカーで運ばれていた」「この庭先に座らされていた」――。現場に足を運び、数々の証言を集めた。
「細部の記憶違いはあるかもしれない。それでも一人の青年が不当に殺害された客観的な事実は揺るがない。その証言を残し、物を残し、場所を残す」と久野さん。それが自身の役割だと考えている。
◆ ◆
東京周辺では、空襲への迎撃などでたびたび空中戦があった。房総半島にも双方の飛行機が数多く墜落した。
久野さんは、睦沢町の南西にある大多喜町の水田発掘で21年に見つかった零式艦上戦闘機(零戦)に注目している。あの8月15日、交戦中に墜落したとみられ、近くに遺骨もあったが身元は特定されていない。
「遺族に届けられないか。内地で戦死した日本軍人にもかかわらず、遺骨がないという遺族がいる。敵味方に関係なく、日本は命の扱いがずさんすぎる」。ホックレー少尉の遺体が荼毘(だび)に付されたという一宮町の寺院の境内で、久野さんは涙ぐんだように見えた。
◆ ◆
ホックレー少尉の遺骨は後に、横浜市の英連邦戦死者墓地に埋葬された。同地には英連邦軍などの1000人を超える戦死・戦病死者らが眠る。8月2日、日本人有志らが例年のように慰霊式を執り行い、英国大使館関係者らも出席した。【高橋昌紀】
一宮町事件の処分
日本の陸軍関係者はホックレー少尉の殺害隠蔽(いんぺい)を図ったが、連合国軍総司令部(GHQ)の調査で発覚した。英軍の戦犯裁判が香港で開かれ、現場の連隊長と報告を受けた師団参謀は指示の有無を巡って主張が対立。2人とも絞首刑となった。
Comments