丸木夫妻の直球な表現活動 「原爆の図」展示する博物館学芸員の思い

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原爆の図を前にして「丸木夫妻の思いを未来に向けて受け継ぐ新しい感覚のアーティストを支援したい」と語る岡村幸宣さん=埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で2025年8月8日午後0時18分、仲村隆撮影 拡大
原爆の図を前にして「丸木夫妻の思いを未来に向けて受け継ぐ新しい感覚のアーティストを支援したい」と語る岡村幸宣さん=埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で2025年8月8日午後0時18分、仲村隆撮影

社会問題に直球で挑む芸術家を後押し

 画家の丸木位里(いり)(1901~95年)、俊(とし)(12~2000年)夫妻が原爆投下後の凄惨(せいさん)な姿を描いた「原爆の図」を展示する「原爆の図丸木美術館」(東松山市)。学芸員の岡村幸宣さん(51)は、夫妻の歩みと社会と芸術表現の関わりを研究しながら美術館の企画運営を担当してきた。岡村さんは戦後80年の今、「丸木夫妻の仕事を受け継ぎ新しい表現に挑む芸術家の後押しに力を入れたい」と話している。【仲村隆】

 大学生だった96年、学芸員の資格のための実習先に選んだのが丸木美術館だった。バブル期の名残で各地に美術館が建てられた中、「授業で取り上げない原爆の図に関心があり、訪ねてみたかった」。01年から学芸員として働き始め、残されていた資料、新聞雑誌などから、既に他界していた丸木夫妻の足取りをたどった。

 丸木夫妻は45年8月6日の原爆投下後、位里さんの実家があった広島に入り、一面焼け野原になった惨状を目にする。この時の体験を基に描き始めたのが原爆の図だ。全15部から成っており、50年に最初の「幽霊」を発表してから、32年間かけて15部「ながさき」まで描き続けられた。

若い世代を中心に多くの来場者が訪れたチンポムの企画展(原爆の図丸木美術館提供) 拡大
若い世代を中心に多くの来場者が訪れたチンポムの企画展(原爆の図丸木美術館提供)

 表現の対象も広島・長崎の被爆被害に限らず、ビキニ環礁の水爆実験で被爆した「第五福竜丸」、米国人捕虜への虐殺といった幅広い視点を取り上げた。アウシュビッツ、南京虐殺、公害といった戦争や社会問題にも直球で切り込んで表現した。岡村さんは「夫妻の亡き時代の問題を考えるのは、現代に生きている私たちの世代の役割だと思う」と語る。

 11年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第1原発の事故で丸木美術館は転機を迎えた。その一つが同年12月、芸術集団「Chim←Pom(現Chim←Pom from Smappa!Group、以下チンポム)」の個展。破壊された原子炉建屋の前で作業員が赤い札を掲げている「Red Card(レッドカード)」など原発事故を巡る一連の核問題をテーマにした表現が話題を呼び、多くの若者たちが来場した。

 チンポムは08年、広島市の原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」の文字を描き、被爆者の非難を受けた。さらに11年には東京・渋谷駅構内に飾られている芸術家の故岡本太郎さんの巨大壁画「明日の神話」に福島第1原発事故を模した絵を付けた行為が警察の捜査を受けるなど過激な行動が物議を醸した。一方、既成の価値観にとらわれない活動が注目を集めた。

 岡村さんは、かつては原爆の図も過激で社会を騒がせたと考えている。

 大手新聞社が占領軍によって原爆被害の報道を禁止された占領下の48年、丸木夫妻は原爆の図の制作を決意し、3部作を完成させた。さらに、50年から巡回展を開き全国を回った。53年までの4年間で約170カ所で170万人が原爆の図を見て、さらには海外でも展示するきっかけに。岡村さんは「原爆を自由に報道できなかった時代。連合国軍総司令部(GHQ)は反戦運動も抑圧していたので、危険はあった」と当時の状況を説明する。

 11年以降、同美術館では若い芸術家の企画展に力を入れ、これまでに100人以上に発表の場に提供している。「丸木夫妻は常に目の前の問題に取り組んだ。今日の社会に向き合う表現を後押ししたい。丸木夫妻の残したものを継承することにつながる」と岡村さんは語る。

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