「絶対大丈夫よー! バックを信じろー!」。21日の山梨学院戦に勝ち、夏の甲子園で初の決勝進出を果たした沖縄尚学のベンチからはナインを鼓舞するひときわ大きな声が飛ぶ。副主将の嶺井駿輔選手(3年)。昨年秋に大きな病を患ったが、控え捕手としてチームを支える。
嶺井選手は昨年9月末、学校のグラウンドで突然胸の痛みに襲われた。その後、息ができなくなるほど苦しくなった。翌日、再び症状が出て、救急搬送された。
「来夏には間に合わないかも」
心筋炎と診断され入院。医師からは「来年の夏には間に合わないかもしれない」と言われ、涙を抑えられなかった。病名を調べ、死の恐怖にも襲われた。
症状が少し収まり、県大会の準決勝を人目に付かない場所で見ていた時のことだ。チームメートがグラウンドから捜して見つけてくれた。体調が悪化し試合途中で帰ろうとすると、「嶺井がんばれー」と声援が届いた。スタンドの応援団からのエールだった。
母咲子さん(52)は当時の様子を覚えている。準決勝の数日前は弱気な発言もしていたが、帰りの車の中で嶺井選手は「俺には戻る場所がある。もう一回頑張れる。大丈夫」と力強く語ったという。
目標ができて表情も明るくなった。病室でグラブやボールを触ったり、ベッドの柵を使ってスクワットをしたりと野球に向き合うようになった。
再検査の結果は…手術
だが再検査の結果が芳しくなかった。手術を勧められたが、センバツにつながる九州大会に出場したかった。「痛みを我慢してでも試合に行く。手術はしない」
結局、将来のことも考慮し手術をすることにした。九州大会に向かうチームメートが「必ずセンバツに出場するから」と約束してくれたことがうれしかった。
九州大会に出発する10月23日が手術日だった。大会期間中、ベンチ入りメンバーとテレビ電話などで会話した。「みんな頑張ってるからお前も頑張れ」「皆で決めるからな」。一部の部員は嶺井選手のユニホームや手袋、ソックスを身につけて試合に臨み、チームは優勝した。
退院した嶺井選手は、優勝チームとして参加した11月下旬の明治神宮大会で背番号「20」をもらった。体調が万全ではなく、「メンバー入りしてよいのか」と葛藤した。出場機会はなかったが、できることをやろうと得意の声出しなどで貢献。年明けには症状も落ち着き、3月のセンバツ以降はベンチメンバーとしてチームを鼓舞する。
病気経て新たな夢が
病気によって新たな夢もできた。入学前はプロ野球選手を目指していたが、今は野球をしたくてもできない国内外の人たちを援助する事業を立ち上げたいと考えている。「野球が楽しいと思ってもらえるような機会を作りたい」
いつも笑顔でリーダーシップを取る嶺井選手。今大会でも攻守交代の時に「行ってこーい」「頑張ってこーい」と選手を送り出す。一番の仲良しで、良きライバルという正捕手の宜野座恵夢選手(3年)も「いつも自分たちの気持ちを高ぶらせてくれる」と感謝する。
帽子のつばに「勝って恩返し」
嶺井選手も捕手として、主戦の末吉良丞投手(2年)や新垣有絃投手(同)の球を受ける。「ピッチャーの良さを引き出すのがキャッチャー。受けたキャッチャーにしか分からないこともあるので、気づいた点は声かけをしている」
帽子のつばには「勝って恩返し」の文字。支えてくれた家族やチームメートへの思いを込めた。
準決勝前の練習を見に来た咲子さんは「今があることに感謝。チームのためにできることを全うして頑張ってほしい」と期待する。
病気を克服したチームの元気印は、沖縄勢としては15年ぶり、チームとしては初の夏制覇に向けて気合十分だ。【山口響、井手一樹】
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