
「身内でただ一人、お墓が分からない人間がいる」。名古屋市の加藤順子さん(67)は、父の前田博さん(95)からこう打ち明けられた。
2022年2月。博さんが頻繁に連絡を取り合っていた弟の収さんを89歳で亡くした直後のことだった。
「ただ一人」の名前は、前田直(なおき)。海軍の軍人で、博さんの伯父にあたる。
幼少期に一度だけ会ったことがある、横須賀に停泊していた重巡洋艦「鳥海」の前で目にした、敬礼の所作や白い軍服姿に憧れた……。
遠い記憶をとつとつと語る博さんの思いに応えたい。そう考えた加藤さんは、博さんと収さんの書簡から直の連絡先とおぼしき記述を見つけた。
東京都練馬区。直の妻、ふみの実家だった。訪ねるとふみの甥(おい)、香取孝雄さん(83)が住んでいた。
加藤さんは並行して厚生労働省に照会。直の軍歴を調べた。
取り寄せた書類によると、直は1896(明治29)年に東京市(当時)に生まれた。1918年に海軍兵学校を卒業後、海軍大学校に進み、ロシア語を専門とする士官として、旧ソ連日本大使館や旧満州(現中国東北部)のハルビンで海軍駐在武官などを務めた。
太平洋戦争の敗戦により、旧ソ連の収容所で8年の抑留生活を送った後、53年に復員した。
直は家に戻ってから、軍時代のことを一切、語らなかったという。日本が戦後復興で高度経済成長の道をひた走り、東京オリンピックが開催された64年、生涯を閉じた。68歳だった。

直は東京都小平市の小平霊園に眠っていた。香取さんの案内を受けた加藤さんと博さんは、墓前で静かに手を合わせた。
目的を果たした加藤さんだったが、しばらくして、思いがけない知らせがあった。
39本のフィルム
香取さんが自宅で直の遺品を新たに見つけたというのだ。
カーキ色の古ぼけたトランクケース。蓋(ふた)には旭日旗とともに「N.C.M」と記されていた。「Navy Military Command」の頭文字で、海軍・軍司令部を意味する。中には16ミリの映写機によるフィルム39本が所狭しと収納されていた。
専門の業者に依頼し、デジタル化したフィルムには1920年~30年代の欧州が記録されていた。
人々が行き交う華やかなパリ、コーカサス山脈を抜けてジョージアからロシアに向かう軍道、ナチス・ドイツが台頭するベルリンが映し出されていた。
ロシア語の文献約130冊、手紙や賞状、写真、艦の記念品もあった。
直は海軍大学校修了後、1929(昭和4)年に軍司令部の第3班第6課に勤務した。機密情報を担当するインテリジェンス機関だ。
ロシア語の文献や写真は、古典文学、バレエやオペラに関する作品が多く、直によって書かれた観劇日記もあった。本にはしおり代わりに使ったのか、ロシアの舞台俳優のメッセージ入りブロマイドが挟まっていた。
ロシア文化に詳しい名古屋大大学院のサブエリエフ・イゴリ教授は「当時、人気だった演目をうかがい知ることができる。90年以上前の文献が、そのまま残っているのは貴重」と話す。

菊池寛との写真も
遺品には、当時の日本人画家が描いた画帳もあった。「キール軍港」と題した絵画は戦前・戦後の洋画壇で活躍した中村研一(1895~1967年)が描いたものだ。陸軍の美術協会理事長を務めた藤田嗣治(1886~1968年)、近代日本画の巨匠・川端龍子(1885~1966年)ら、戦争記録画を手がけた有名画家の作品もあった。
藤田ら画家たちと、小説家でジャーナリストだった菊池寛(1888~1948年)と直が映る写真もあった。
菊池は日本文芸家協会の会長だった38年、日中戦争の揚子江作戦などを取材している。旧満州のハルビンで海軍駐在武官を務めた直は画家や作家と交流を持ったとみられる。
華やかな軍歴は42年、海軍駐在武官として海軍大佐への昇進が最後となった。
終戦直前の旧ソ連による侵攻により抑留され、ウオロシロフ収容所、ルビヤンカ監獄などを転々とし、53年12月にウラジーミル収容所から復員。引き揚げ団の団長を務めた。
直がふみに送った手紙も残っていた。結婚した36年4月から、太平洋戦争直前の41年8月までの約5年間で、計217通にのぼる。
香取さんは「ラブレターでプライベート部分なので見せることはできない」としたが、手紙は丁寧にリボンで結ばれていたという。【真貝恒平】
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