『アンパンマン』誕生もラジオの仕事きっかけ?
『アンパンマン』の作者、やなせたかしさんと妻の暢さんをモデルにした2025年前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』第21週以降では、「柳井嵩(演:北村匠海)」が漫画家以外の仕事で大忙しとなり、「来た仕事は断らない」方針のやなせさんが実際に行っていた仕事の多彩さも話題になっています。
これまで嵩は舞台美術、作詞、リサイタルの構成、TVタレント業、ドラマの脚本、詩集の発売などマルチに活躍してきました。NHK出版が出しているドラマのガイドブック「連続テレビ小説 あんぱん Part2」には、『あんぱん』第23週までの簡単なあらすじが載っています。
それによると、今後は『アンパンマン』に関わる仕事以外に、やなせさんの代表作の絵本『やさしいライオン』のもととなるラジオドラマの脚本を執筆したり、1967年に週刊朝日のプロアマ問わずの漫画賞でグランプリを獲った『ボオ氏』を描いたり、手塚治虫さんがモデルの「手嶌治虫(演:眞栄田郷敦)」からアニメ映画『千夜一夜物語』(1969年公開)のキャラクターデザインを頼まれたりと、やなせさんの代表的な活躍が再現されるようです。
ただ、やなせさんの自伝を読んでみると、ドラマでは描き切れないほどに多くの、意外な仕事をしていたことも語られています。そして、仕事を通してさまざまな有名人とも親交があったそうです。
やなせさんは四谷の荒木町の自宅から、徒歩15分ほどのところにあった文化放送(現在は浜松町に移転)で、数々のラジオドラマ、コントの脚本の仕事をしており、『やさしいライオン』の物語も最初は文化放送で、男性コーラスグループのボニージャックス(1965年、やなせさん作詞の「手のひらを太陽に」のシングルを出し、「紅白歌合戦」に出場した)主演のラジオミュージカルとして流れました。
また、実はやなせさんがいちばん最初に『アンパンマン』について書いたのも、ラジオドラマでの仕事だったそうです。いつ頃の放送かは定かではありませんが、2009年のやなせさんの書籍『わたしが正義について語るなら』では、
「アンパンマンが最初に世に出たのは、まだ四十歳の頃にラジオドラマのコントとして登場させた時でした。(中略)一回だけアンパンマンを登場させたのですが、どういう具合のものだったか、ぼくもほとんど覚えていません。」
と綴られています。1919年2月生まれのやなせさんが40歳の頃なら、1959年の話でしょうか。
この文化放送の仕事で、やなせさんはNHK専属タレント第1号として歌手、女優、声優として活躍した楠トシエさん、女優の久里千春さん、1960年代以降に声優として大活躍した増山江威子さん、落語家の三遊亭小金馬さんらとも仲良くなったそうです。
また、やなせさんは1970年の大阪万博の催し物にも参加していました。やなせさんが所属していた漫画集団(いわゆる「大人漫画」を描く漫画家の団体)が、「太陽の塔」の向かいにあったイベント会場「お祭り広場」で世界最大のマンガを描くというショーを開催し、やなせさんは全体の構成を任されています。演出は劇作家の丸尾長顕さんに頼んだそうです。
自伝『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)では、やなせさんは風が強い会場で紙が飛ばされるという悪条件のなか、白い壁紙を会場いっぱいに敷き詰め、砂袋を置くという作業自体をショーとして見せるアイデアを思いついたことを語っています。そして、親交のあった楠トシエさんと林家三平さん(初代)に司会を頼んで、会場を大いに盛り上げてもらったそうです。
神宮球場を借りて、絵の具をたっぷり含んだモップを持って走りながら描くという過酷な練習も行って迎えた本番の日は、あいにく台風でした。その際に命がけで描いた絵はめちゃくちゃになったそうですが、翌日の快晴のなかでやった二度目のショーでは見事な絵が完成し、大拍手をもらったといいます。
やなせさんは大阪NHKのインタビューも受けたとのことで、あとから振り返ると「嵐の中のメチャメチャな絵の方が次の日のきれいな絵よりもはるかに面白い」と感じたそうです。
そのほか、やなせさんは1969年7月に行われたキッコーマン主催の「デルモンテ奥さま洋上大学」の講師のひとりとして、船旅でハワイに行ったり、針すなおさんと中村伊助さんの仕事に同行して似顔絵を学び、帝国劇場の前で街頭似顔絵屋をやったりしたこともあったといいます。また、NHKでリポーターをしてさまざまな現場に行ったり、日本テレビの『漫画ニュース』で(1957年〜59年)その日のニュースを切紙アニメにして放送したりもしていました。
とにかくたくさんの人がやなせさんに仕事を依頼し、やなせさんも断らずに引き受けたため、さまざまな業績が各分野に残っているようです。朝ドラの枠では描き切れないのも仕方ないかもしれません。
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