俳優・歌手・タレントの松島トモ子が今月、80歳となった。生を受けたのは第二次大戦末期の1945年7月10日、現在の中国東北部にあたる旧満州の奉天(現・瀋陽)である。本名の「奉子(ともこ)」も、奉天と陸軍大将の山下奉文(ともゆき)に由来する。三井物産の社員だった父はこのとき出征しており、会社の上司が命名したという。

7月10日に80歳の誕生日を迎えた松島トモ子〔2006年撮影〕 ©文藝春秋
松島が生まれてほぼ1ヵ月後の8月9日にはソ連が参戦した。母親は幼い彼女を抱え、満州に侵攻したソ連兵に襲われないよう、逃げたり隠れたりの緊迫した生活を余儀なくされる。ようやく引き揚げ船に乗り込み、帰国の途についたのは終戦から10ヵ月後、1946年6月のことだった。後年の母の回顧によれば、東京・目黒の実家にたどり着いたとき、松島は栄養失調からすっかり痩せ細り、ぐったりとして息も絶え絶えの状態だったため、慌てて病院に駆け込んだという(松島トモ子『母と娘の旅路』文藝春秋、1993年)。
一度も顔を見ることのなかった父
出征した父はソ連の捕虜としてシベリアに抑留され、終戦直後の1945年10月に亡くなっていた。松島母子はそのことを4年後、父とシベリアの捕虜収容所で親友になったという人から伝えられる。
松島がとうとう一度も顔を見ることのなかった父は、シベリアの収容所近くの丘に埋葬された。彼女は芸能界に入ってからも長らく父の墓参りを願い続け、16歳のときにはその思いを込めて歌った「丘にのぼろう」(1962年)というレコードも発表している。戦友のスケッチを手がかりに父が埋葬された場所を探し出し、母と一緒に悲願をかなえたのは戦後45年も経った1990年のことだった。
松島は満州時代の栄養失調のため、その後も病弱で体の発育も悪かった。母親はそんな娘が少しでも丈夫になるよう、彼女が3歳のとき、舞踊家・石井漠のスタジオでバレエを習わせ始めた。
彼女は喜んでレッスンに通い、日比谷公会堂で初舞台を踏む。このとき、観客からの拍手とスポットライトをたった一人で浴び、さらに終演とともに緞帳が徐々に下がっていくなか、観客の顔が後ろから最前へと1列ずつ見えなくなっていくのがもったいなくて、「私、もっとここに居たい」と思ったという(中山千夏『ぼくらが子役だったとき』金曜日、2008年)。
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