御厨貴さんが見る「自民党政治の終幕」 石破政権の唯一の成果は

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首相官邸に入り、報道陣の呼びかけに応える石破茂首相=2025年7月30日午前9時16分、平田明浩撮影
首相官邸に入り、報道陣の呼びかけに応える石破茂首相=2025年7月30日午前9時16分、平田明浩撮影

  政治の流動化が続く。参院選で示されたのは、自民、公明、立憲民主、共産といった旧来型の政党の衰退と、国民民主、参政といった新興政党の急伸だ。歴代首相のオーラルヒストリーを手がけてきた政治学者、御厨貴氏は「自民政治の終幕」をどう見るか。

 <主な内容>
 ・「族議員」はこうして生まれた
 ・田中角栄が仕掛けた「国対」
 ・「勝てば官軍」
 ・限界迎えた「数の力」
 ・「飛び散った民意」の受け皿

――戦後のほとんどの時期で政権を担った自民党が、先の衆院選に続き、参院選で敗北しました。

 自民党が、霞が関の官僚組織と作り上げた統治システムが、まさに今、終幕を迎えたと言えるでしょう。

 自民党は1955年、緒方竹虎が総裁を務めていた自由党と、当時首相だった鳩山一郎の日本民主党が「保守合同」して結党されました。

 中心になって動いたのは、犬猿の仲といわれた、大野伴睦(自由党)と三木武吉(日本民主党)です。

 背景には、社会党が政権を目指して、先に左右両派を統一したことがあります。

 共産主義ほどではないが、社会党政権ができることを危惧したためです。

 結党された55年、初代幹事長だった岸信介は、左右両派統一後の社会党の初代書記長だった浅沼稲次郎に、民主的な議会政治のルール作りを呼びかけました。

 異様に実力がある自民党議員と、大蔵省(現財務省)など、力のある官庁が接近して多くの問題を解決していきました。

 「族議員」と呼ばれる人も多く誕生しました。

 国会に法案が提出された時には、全てが決まっている。

 野党が抵抗しても、騒ぎが過ぎれば解決していく。これが、自民党型の統治システムです。

ペリー来航のような慌てぶり

――自民党型の政治と、国民が求める感覚にズレを感じます。

 自民党型の政治は、他に代わるシステムがなく、惰性で続いてきました。

 「政治とカネ」の問題も、さまざまな課題について小手先の対応ながら、何とか乗り越えてこられたことで、自民党は甘く見てきました。

 ところが、何となく許してきた国民も今、物価高による生活の貧困を皮膚感覚で感じています。

 参院選の争点も、消費税減税や給付金、コメ問題、外国人に関する政策と、目まぐるしく変わりました。

 トランプ関税に対して石破茂内閣は決着はさせたものの、当初の慌てぶりは江戸末期のペリー来航時のようでした。

 目まぐるしい社会変化に、自民党がついて行けていないことがはっきりしました。

 政権維持だけを考えていては、国民からそっぽを向かれます。

 この国にそんな余裕はありません。

 自公連立政権の崩壊は、自然の流れといえます。

田中角栄が野党に仕掛けた「国対」

――自民党が権力を誇示してきた「55年体制」がなぜ続いたのでしょう?

 55年体制の時、自民党は社会党と対立する「見せ場」を作らないといけませんでした。

 それを担ったのは、田中角栄が野党に対する「根回し」と称して、本格化させた国会対策(国対)です。

 社会党の左派と田中派が、裏で「握る(合意する)」こともありました。

 私は、首相も務めた竹下登氏に、なぜ、そのようなことが実現できたのかを尋ねてみました。

 「共通の戦後体験があると、党派を超えて仲が良いんだ」と言っていました。

 自民党は2度下野しましたが、それ以外では、衆院で多数を維持し、国対で野党と協議しながら政権運営をしてきました。

 しかし、今の自民党は結党以来、経験したことがない少数与党政権です。

 内閣不信任案が、いつ可決されても不思議でない緊張感は初めてのことです。

弱体化始まった「平成期」

――弱体化はいつからでしょうか。

 平成期だと思います。中曽根康弘氏は後継候補について、佐藤栄作と同じように1人に絞らず3人を決めました。

 「安(安倍晋太郎氏)・竹(竹下氏)・宮(宮沢喜一氏)」です。

 ところが、リクルート事件や東京佐川急便事件など、内閣が一つ倒れるような大きなスキャンダルが相次ぎ、誰が次の首相になるかの予測可能性がない、不可測な世界に入りました。

 平成期には、小泉純一郎氏や安倍晋三氏がいたではないか、と言われるかもしれない。

 だが、自民党創成期に再編された、かつての5大派閥から順番に総裁を輩出していた時代と違い、小泉、安倍両氏とも清和政策研究会です。

 一つの派閥に権力が集中し、この時点で変質は起きていました。

派閥好きだった岸田氏の皮肉

――派閥の解消も大きかったですね。

 実は、自民党は初代総裁を選べませんでした。自由党と日本民主党からそれぞれ2人長老が出て、これが総裁代行委員になりました。

 初代総裁が決められぬほど、保守2党間の対立は激しかったと言えます。

 派閥は、いつの時代も、党を動かす運動体でした。

 ただ、政務調査会などのような党の正式な機構と違います。国民らには表に見えにくい組織で、「カネ」の問題などがつきまといました。

 派閥解消を決めた岸田文雄氏は、党最古の歴史を持つ宏池会出身で、派閥が好きだったはずです。

 その岸田氏が、自らの権力を維持するためだったとはいえ、派閥活動の幕引きを図り、党を機能不全に陥らせてしまったことは皮肉に感じます。

安倍氏がかかげた「勝てば官軍」 

――「政治の劣化」や「議員の小粒化」が指摘されて久しいです。

 一つの選挙区から複数候補が当選した「中選挙区制」では、金権政治を生むなどの問題は確かにありました。

 それでも、党派は違っても、問題解決のために、同じ選挙区の議員同士が考え、協力する政治の「ゆとり」のようなものがありました。

 1994年の平成の政治改革で、衆院は1選挙区1人しか当選しない「小選挙区制」を中心とした制度に変わりました。

 私は、この制度について、安倍晋三氏に尋ねたことがあります。

 すると、安倍氏は「4期生までは、選挙で勝ち抜くことだけを考えろ。政策…

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