
オーケストラの弦楽器が奏でる短調の和音と、ギターがつまびくイントロに導かれ、悲しげな歌声が静かに流れる。
♪髪のみだれに手をやれば/赤い蹴出(けだ)しが風に舞う……。
福島県いわき市平薄磯の塩屋埼(しおやさき)灯台を舞台にした、1987(昭和62)年発表の歌謡曲「みだれ髪」だ。美空ひばりさん(37~89年)が女の情念を歌い、ヒットした。
灯台のふもとの広場には歌碑と遺影碑、等身大のブロンズ像が並び建つ。遺影碑にはセンサーが付いていて、人が近づくと感知し曲が流れる。その瞬間、周囲は“昭和色”に染まる。
「資料館みたい」
広場の一角で土産店「灯台下つるや商店」を営む荒木澄江さん(75)が「どうぞ、見ていってください」と、観光客に声をかけた。店内は貴重な写真やポスターなどの「ひばりグッズ」で埋め尽くされ、「資料館みたい」と驚く人もいるという。

荒木さんによると、店は70年ごろに母の鈴木フクさんが始めた。もともと灯台の観光客相手に細々と営んでいた店だったが、「みだれ髪」のおかげで観光名所となった。「ファンが大勢、観光バスで来てね。母は『つるやのおばちゃん』と呼ばれて親しまれました」。フクさんは2014年に87歳で亡くなったが、生前、「まさか、(大ファンの)ひばりちゃんにこんなに商売の面倒をみてもらえっとは」と語っていたという。
塩屋埼灯台を舞台にしようとのアイデアは、仕事で福島をよく訪れていたひばりさんの新曲の企画担当者が長く温めていたらしい。「太平洋に張り出したさみしい灯台」というイメージを詩にしてもらおうと87年3月、作詞家の星野哲郎さんに依頼したという。
直後、ひばりさんは大病を患って入院した。「みだれ髪」はその間、船村徹さんの作曲で完成し、ひばりさんの退院を待って同年10月、復帰第1作としてレコーディングされた。
作詞にあたって現地を訪れた星野さん。荒木さんは「母がサツマイモを甘く煮たのを出したら『おいしい、おいしい』って」と笑う。気さくなフクさんの人柄に魅せられた星野さんは、その後も何度か訪ねて来た。
♪沖の瀬をゆく/底曳(そこび)き網の……。
目の前の海を眺めながら交わした2人の会話から、星野さんがつむいだフレーズだという。
ひばりさんは、昭和の終わりと共に89(平成元)年6月、帰らぬ人となった。それでも今も「昭和の歌姫」の人気は衰えず、世代を超えて、市内外から、ひばりファンが訪れる。
荒木さんは昭和の最後を「景気が良かったし、余裕があったからか、人ものんびりしていた」と懐かしむ。「母は話好きで、お客さんとずーっとしゃべってた。そのうち店の前にテーブルを出して一緒に食べたり飲んだり。穏やかな時代でしたねえ」
大震災乗り越え
そんな時代の移り変わりを、いつも優しく見守ってきた大海原が、突如牙をむいた。2011年3月11日の東日本大震災。灯台から北の海沿いに民家がひしめいていた薄磯地区は8・5メートルの津波にのまれ、約280世帯の9割が全壊した。地区の慰霊碑には犠牲者122人の名が刻まれている。

この地区に住んでいた荒木さんはあの日、いつもより少し早めの午後2時に店を閉めると、内陸の市中心部に家族で出かけた。大きな揺れが収まった後、すぐに車で帰路についたが、道路は倒れた電柱や大木で塞がり、回り道をしてようやく戻ると、自宅はおろか、地区ごとごっそりなくなっていた。
「右往左往したのが良かったんです。すんなり戻っていたらちょうど家に着く頃に津波が来ていたと思う。だから私は生かされたんですね」と振り返る。
近くの施設に通所していたフクさんはちょうど施設にいて無事だったが、親類や幼なじみ、近所の友人……。親しい人を大勢失い、全身の力が抜けたようになった。3日ほどして知人に勤め先を紹介してもらい、落ち込む暇がないほどがむしゃらに働いたという。
「つるや」は奇跡的に無事だった。震災前にフクさんの後を継いでいた荒木さんは、11年の暮れに店を再開した。震災から来年で15年。壊滅した地区は津波防災緑地となるなど、すっかり生まれ変わった。

流れ続ける歌
日が沈み、明かりをともした灯台がくっきりと浮かび上がる。孤独に病気と闘っていたひばりさんの姿が重なる。
♪ひとりぽっちにしないでおくれ
星野さんは歌の最後を、こう締めた。
それは、津波の犠牲者や、残された人たちの心をも歌っているように聞こえてならない。観光客が訪れるたびにセンサーが作動し、この歌は広場に流れ続ける。いつも身近で聞いている荒木さんに飽きないか聞いてみた。「とんでもない。鳴っていないと寂しいですよ」。からっとした笑いで返すと、フクさん伝来のシジミとワカメのお茶を、通りかかる観光客にしきりに勧めた。【柿沼秀行】
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