【売野雅勇 我が道3】ONより藤尾に惹かれた理由 その後の人間形成に影響した“裏方としての美学”

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 「ミスタープロ野球」として国民的人気を集めた読売ジャイアンツの長嶋茂雄と、王貞治が活躍した1959年以降、子供たちのアイドルは「ONコンビ」でした。

 この頃の子供に人気の遊びといえば野球。僕も町内にあった少年野球チームに入団しました。最初はショートでしたが、翌年サードにコンバートし、4番を任されるようになりました。

 周りが王、長嶋の時代。僕の目は、巨人でキャッチャーだった藤尾茂を追いかけていました。ちょっと地味だけど光るところがあって、雰囲気が良かった。クールさに惹(ひ)かれたんです。長嶋に惹かれなかったのは、メインストリームに惹かれなかったから。奇をてらった少年でした。

 状況を静観して動く、藤尾の存在は、その後の人間形成に影響したのではないかと思います。コピーライターとして、クライアントの求めに応える。作詞家として、アーティストに合う詞を考える。藤尾からは、裏方としての美学を教わったように感じるんです。

 藤尾が13年間つけていた背番号「9」は憧れの象徴。普段着るワイシャツにも刺しゅうされた「9」をくっつけて、誇らしく思っていました。

 宇津井健の「遊星王子」、大友柳太朗の「鞍馬天狗」などが劇場を満杯にしていた小学生の時、映画にも凝り始めました。アサヒ座、末広劇場、東映、有楽座、中劇。映画が全盛期だった時代、足利の町にはたくさんの劇場があって、どこも立ち見が出るくらい盛況でした。通路に人があふれるくらい満員で、子供は舞台の上に乗って見ていました。

 初めて大きなスクリーンで映画を見たのは、主演の久我美子が中年の男を誘惑する「挽歌」でした。母に連れられ、小学校低学年の時に見たのですが、寂しさを抱えた大人たちがすれ違う姿を見て、大人の世界をのぞいてしまったという思いがあったのでしょうか。

 泣いた覚えがあって、お母さんに「どうして泣いているの?お前、これが分かるの?」って顔をのぞき込まれて、凄く恥ずかしい思いをしました。

 「そんなにだったかな?」と思って数年前に見直してみたんですけど、なんで泣いたのか。今となっては分かりません。でも、人の琴線に触れる。その原体験だったのかもしれないなぁと思います。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

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