「ただただ恐ろしかった」語った恐怖 被爆2世がつむぐ母の記憶

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母・生野キヨミさんの遺影を手にする安藤美樹さん。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞のメダルを模した、お土産の菓子が飾られていた=さいたま市で2025年7月16日午後2時3分、萩原佳孝撮影 拡大
母・生野キヨミさんの遺影を手にする安藤美樹さん。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞のメダルを模した、お土産の菓子が飾られていた=さいたま市で2025年7月16日午後2時3分、萩原佳孝撮影

 長崎への原爆投下から9日で80年となった。さいたま市の安藤美樹さん(61)の母、生野キヨミさんは80年前のその日、長崎で被爆した。小学生の孫らに当時のことを話すとき、いつもこう切り出したという。「ばぁばは14歳で、大人とも子どもとも言えない年齢だったの」

 キヨミさんの話は次のようなものだ。

 長崎女子商業学校(現・長崎女子商業高)の生徒だったキヨミさん。その日は夏休みの実習で長崎県庁近くの郵便局で働いていた。空襲警報で机の下に潜ると、ピカッと光ってものすごい音とともに爆風で窓ガラスが割れた。同じ部屋の女子職員は破片が顔に刺さり、後日亡くなったと聞いた。爆心地からは約3・3キロだった。

 「その後は、火の海でただただ恐ろしかった」。電車でつり革につかまったまま真っ黒焦げになっている人がいた。顔の形が崩れ「お水をください」と助けを求める人がいたが、14歳のキヨミさんは恐ろしくてどうすることもできなかった。

 知人らと歩いて山を越え、翌朝3時に隣村の自宅に着くと、家族が「死んでしまったと思った」と駈け寄り、泣きながら抱き合った。爆心地近くにいた近所の女性は家で寝かされていたが、歯茎が紫色になり髪の毛がごっそり抜け数日後に亡くなった。

 安藤さんによると、キヨミさんがこうした体験を家族に話したのは二十数年前が初めてだったという。「可愛がっていた孫の夏休みの宿題の役に立ちたいと思ったのでしょう」

 「被爆者の子は障害を持って生まれる」という風評があり、「最初の子どもだった私が生まれた時、母はまず『指は5本ちゃんとありますか』と医師に聞いたそうです。母によく聞かされました」。

 キヨミさんの言葉を残そうと安藤さんがペンを執ったのは、県原爆被害者協議会(しらさぎ会)が証言集「原爆許すまじ 未来への伝言第3集」(2020年発刊)の原稿を募集していると聞いてから。キヨミさんは当時80代後半。歩けなくなり、認知症の症状が出始めていた。同会の活動を知り、被爆2世を自覚し始めていたという安藤さんは「また同じことが繰り返されるかもしれない。2世として生まれ、母から体験を聞いた以上は、少しでも多くの人に伝えなければ」と思った。

 「元気なうちにもっと聞けばよかったと悔やみましたが、弱った母には聞けませんでした。話せなかった思いや苦悩もあったと思います」

 核廃絶を訴える被爆者の長年の辛抱強い取り組みを知ると、「私たちはこういう人たちに守られてきたのだと痛感する」。22年にキヨミさんが90歳で亡くなると、しらさぎ会に入会。事務局の活動に加わり、被爆体験の聞き書きなどにも取り組んでいる。

 以前から続ける小学校での絵本の読み聞かせでは、広島原爆で家族全員を失った女性を描いた「いわたくんちのおばあちゃん」(主婦の友社)を取り上げる。「昨夏、主人公の娘さんに広島で偶然出会いました。本当に引き合うような体験。読み聞かせに力をもらいました」

 被爆者の体験をどう継承していくか、しらさぎ会の中でも話し合われている。安藤さんは、元気な被爆者と今交流できることがとても貴重だと感じている。「直接話を聞くことで、次の世代により生き生きと伝えることができる」と思うからだ。ただ、一人の力では何もできない。「各地でさまざまな活動をしている仲間たちと支え合い、手を携えていきたい」

【萩原佳孝】

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