「戦争遺児の自分にけじめ」 終戦後になぜ戦病死、父の足跡を伝記に

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廣次さんの遺品のライカを手にする将一さん=横浜市戸塚区で2025年8月4日午前11時17分、太田穣撮影
廣次さんの遺品のライカを手にする将一さん=横浜市戸塚区で2025年8月4日午前11時17分、太田穣撮影

 玉音放送の約1カ月後、太平洋戦争の激戦地ニューギニアで戦病死したという父。戦争は終結していたはずなのになぜ死んだのか――。栃木県足利市出身で主計将校だった父の足跡を約40年かけて調べてきた男性が、戦後80年の節目に伝記「ニューギニアに眠る父 阿部廣次の航跡」をまとめた。

 執筆したのは、横浜市戸塚区在住の阿部将一さん(83)。父廣次さんは戦況が悪化した1943年4月、主計中尉として第51師団に配属された。同5月に南方方面の司令本部があったニューブリテン島ラバウルに向かい、その後ニューギニアに渡った。

 46年2月に「遺骨」と称した白木の箱が留守宅に届いたが、中身は「阿部廣次の霊」と書いた小さな紙切れ一枚。遺骨は戻らなかった。葬儀後の同7月に県から届いた戦死公報には、45年9月13日、ニューギニア東部のウエワク近郊で戦病死とあった。37歳だった。階級は少佐に昇進していた。

 「ラバウルからは手紙や絵はがきが20通以上届いたが、44年1月に到着したのを最後に途絶え、ニューギニアでの様子は全く分からない。『不幸な最後だった可能性もあるからやめた方がいい』と忠告してくれる人もいたが、子として父の足跡や最期を知りたいと思った」

 85年に国が主催した東部ニューギニア巡拝団に母婦美さん(2002年に92歳で死去)と参加したのをきっかけに、廣次さんの生涯に改めて向き合い始めた。

 将一さんによると、廣次さんは足利・八木宿の裕福な商家に生まれた。早稲田大卒業後、33年に入営し、経理部幹部候補生試験に合格。37~38年の2度目の応召では、中国・上海、南京、徐州と転戦後、病気療養のため帰国、帰郷した。

 召集解除後の41年に婦美さんと結婚し、翌42年6月に長男将一さんが生まれた。ニューギニアへ渡ったのは3度目の応召のときだった。

 将一さんは廣次さんの兵籍や軍歴を調べ、ニューギニア戦の公式資料、廣次さんの同じ連隊、師団に所属した将兵の従軍記録や回顧録などを読み込んだ。主計将校の任務は主に食糧や装備の分配などだったため、廣次さんは部隊主力とは違う行動だった可能性を考慮して、移動経路を推測した。

 同郷の生還者や最後に廣次さんの当番兵を務めた人物を訪ね歩き、証言を集めていった。その結果、終焉(しゅうえん)の地はウエワクからさらに東の集落で、そこで持久のための製塩任務を担当していたことを突き止めた。

 廣次さんの最期について、当番兵だった男性は「(亡くなる)数日前から高熱を出していた。伝令のため留守にし、帰って来た時には亡くなっていた」と話した。だが、口ぶりや態度から、将一さんは真実ではないと感じたという。

 「多くの兵士が飢える中、父は体格を維持していたらしい」(将一さん)。伝記には「(主計将校だった)父は兵隊たちが飢えて死んでゆく中でもコメを食っていたかもしれない」と書いた。

 廣次さんが死亡したのは、ニューギニア戦を指揮した安達二十三陸軍中将がオーストラリア軍に対する降伏文書に調印した日で、翌日が降伏式だった。「日本軍としての組織は解かれ、軍隊としての階級の上下関係が消え去る前日に父は死んだ。父は本当に病死だったのか」。伝記の中で「戦病死」への疑念を率直につづった。

 伝記では、高級カメラ「ライカ」で写真を楽しみ、独BMW社のオートバイを乗り回した、若き日の廣次さんのモダンボーイぶりも描いた。花嫁修業として習得していた生け花や琴、茶道を生かして習い事の教室を繁盛させ、将一さんを育て上げた戦後の婦美さんの奮闘なども盛り込んだ。

 1歳になる前に別れたため、将一さんに廣次さんの記憶はない。「父のことを調べ、思いをつづっている時、父を近しく感じることができた。戦後80年。戦争遺児としての自分自身にも一つのけじめをつけたかった」

 将一さんは15日に日本武道館で開かれる「全国戦没者追悼式」に初めて参列する予定だ。伝記は参列した所感を加筆して完成させ、電子書籍での出版を検討しているという。【太田穣】

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