長崎市で9日にあった平和祈念式典のあいさつで、石破茂首相は、長崎原爆で被爆しながら救護活動に奔走した医師、永井隆博士(1908~51年)の著書の一文を引用して読み上げた。
「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」
原爆によって奪われたかけがえのない多くの命や、悲惨な姿と変わり果てた街の惨禍を訴え、長崎を最後の被爆地に、という切なる願いが込められている。
石破首相は6日に広島市であった平和記念式典のあいさつでも、広島原爆で被爆した歌人、正田篠枝(1910~65年)の短歌を引用していた。
では、永井博士はどんな人物なのか。松江市で生まれ、長崎医科大を卒業後、放射線医学を専攻。爆心地から約700メートルの医科大付属病院で被爆し、大けがをしたものの、被災者救護に尽力した。
戦後は白血病の悪化で寝たきりを余儀なくされたが、48年から「如己(にょこ)堂」と呼ばれた2畳一間の家で子供2人と暮らし、「この子を残して」や被爆児童の手記をまとめた「原子雲の下に生きて」などを出版。平和な世界の実現を広く訴え、著作で得た収入の大半を長崎復興のために寄付した。
石破首相があいさつに引用したのは、「長崎の鐘」(49年発刊)の一文。被爆した永井博士が、自らの目で見た悲惨な街の様子や、救護活動に当たった記録を記している。
原爆で在籍児童約1300人が犠牲になった山里国民学校(現長崎市立山里小学校)は自宅近くにあり、永井博士は49年、山里小の一角に子供らの冥福を祈り「あの子らの碑」を建てた。山里小は毎年11月にこの碑の前で祈念式を開くなど、平和の願いが受け継がれている。【田崎春菜】
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