八幡大空襲の慰霊祭で「長崎の鐘」をハーモニカで演奏してきた篠原守さんが2025年3月14日、80年の節目を前に他界した。95歳だった。
篠原さんは1944年6月、15歳の時に本土初となるB29爆撃機の空襲を経験。同年10月に「海軍飛行予科練習生(予科練)」となった。戦争末期の45年7月下旬、米軍の本土上陸に備えて人間機雷「伏龍」の隊員とされた。伏龍は潜水服姿で海底に潜み、竹の棒の先に付けた機雷で敵船を突いて自爆する特攻兵器で、訓練中には多くの犠牲者が出た。
終戦とともに故郷に戻り、企業に就職したが戦時中の話はしなかったという。沈黙を破ったのは戦後60年の節目、2005年だった。北九州市八幡西区の浅川中学校で初めて体験を語り、その10年後、聞き書きボランティア「平野塾」と連絡をとるようになった。
「塾が体験を集めた『あの日、八幡で何が起こったか』の第1集を出した時、篠原さんから連絡が来ました。『私の話も聞いてもらえますか』でした」。篠原さんが亡くなるまで100通以上の手紙などを受けた塾副代表、出口敬子さん(74)は振り返る。そして第2集に篠原さんの過去と思いが掲載された。映画を見て予科練に憧れ、過酷な体験を経てきた篠原さんは「この体験を命ある限り後世に伝え、決して過ちを繰り返さないように努めなければならない」とつづった。篠原さんはその後、各地の中学校や大学、市民センターなどで講演を続けてきた。
20年8月の八幡大空襲慰霊祭。篠原さんは原爆の第1投下目標だった小倉が視界不良で長崎に落とされたことへの哀悼の思いを込めて得意だったハーモニカで「長崎の鐘」を吹いた。昨年は病気で出席できなかったが23年まで4年間、続けてきた。出口さんは手紙を見ながら「日常というものがどれほど素晴らしいかを知っている人でした。これからも篠原さんの思いを若い人たちにつないでいきたい」と語り、篠原さんをしのんだ。【反田昌平】
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