「絶対に核兵器を使ってはならない。使ったら全てがおしまい」。長崎市の平和祈念式典で、被爆者代表の西岡洋さん(93)=横浜市=は、原爆で傷つけられ、命を奪われた人たちを思い出しながら「平和への誓い」を読み上げた。
ガラス刺さった同級生の下で
13歳で旧制長崎県立長崎中の2年生だったあの日、爆心地の南東約3・3キロの学校にいた。「敵大型2機、(長崎県の)島原半島を西進中」というラジオ放送の内容を別の生徒から聞いて間もなく、飛行機の爆音がした。
次の瞬間、強烈な光を受けてとっさに伏せた。数秒後、ものすごい爆風がきて「死ぬ」と感じた。数人の同級生が体の上に乗っかってきた。西岡さんは無傷だったが、同級生はガラスが刺さり血だらけになっていた。
学校の裏山の壕(ごう)に逃げてきた近所の人たちはみな「爆弾が自分のそばに落ちた」と言った。高台に上がると、浦上方面に火柱が上がっていた。学校の近くには腕がない人や顔の半分がなくなったような人、血だらけの赤ちゃんを抱いた母親らがぞろぞろと歩いてきた。
「市内の別の中学で生徒が生き埋めになっているらしい」。翌日か翌々日のこと。登校すると、ゴム底の靴を履いていた西岡さんら生徒5人がスコップを渡され、救護に向かうよう命じられた。
同年代の遺体を見ても…
焼け野原になった爆心地近くの球場では、バックネットの鉄の網がちり紙を丸めたようにくしゃくしゃになっていた。「日本は勝てないんじゃないか」と感じたが、すぐ「いけない。こんなことを考えると非国民だ」と思い直した。
向かった先は爆心地の南約800メートルの旧制県立瓊浦中。積み木を崩したように倒壊した校舎に生徒の遺体が挟まれ、校庭には教員の遺体が並べられていた。生徒の遺体の名札を見て名前を書き留めた。
「遺体を見ても『かわいそうだな』とも『どこの子だろう』とも思わず淡々と書いた。無感情。それが戦争でしょうね」
帰路、橋の上で横たわった負傷者に「水をくれんですか」と乞われたが、自分の分を確保するのに必死で断った。「一口でもあげればよかった」。今も悔やむ。
証言残すためにAI活用
東京の大学を卒業後、商社マンになり米国などで勤務。退職後の1996年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の一員として米国で証言したのを機に、神奈川県の子供たちに被爆証言を続けている。
県が導入した人工知能(AI)を活用して証言を残すシステムの開発にも協力した。
「強国が核兵器をちらつかせ、それが世界の風潮になりつつあるが、実行されたら大変なことになる」。強い危機感から被爆者代表に応募し続け、3回目で決まった。
2024年、所属する日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、「世界中の人々が私たちを見てくれている」と勇気付けられた。
誓いではこう呼び掛けた。「平和につながるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう」【尾形有菜】
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