大日本帝国の戦争で同じように破壊された家庭が、いったいどれくらいあったのか。
命をもぎ取られた人が、どれくらいいたのか。
そんなことを考えさせられる。
学徒出陣で特攻隊員となり22歳で戦死した慶応大生、上原良司さんとその家族の遺品を集めた企画展「ある一家の近代と戦争」が、東京・三田の慶大で開かれている。
いずれも慶大で学んだ上原家の3兄弟は、3人とも戦争で命を落とした。「戦没学生が残した最も有名な遺書の一つ」と言われる良司さんの手記をはじめ、上原家が継承してきた約100点の資料が、戦争が庶民にもたらす惨禍を物語る。
長野県有明村(現安曇野市)の上原家。開業医だった寅太郎さんと妻の与志江さんは、長男の良春さん、次男の龍男さん、三男の良司さんに、長女の清子さん、次女の登志江さんと3男2女に恵まれた。
多くの家族写真が残っている。たとえば、きょうだい5人が安曇野の山々を背景に「父」「サン」「頑」「張」「レ!!」と書いた5枚の紙カードを持って、笑顔で立っている写真だ。
カードの裏には、それぞれ「大学生」「(大学)豫(予)科生」「中学生」「女学生」「小学生」と書かれている。軍医として中国に出征していた寅太郎さんを励ますため、1938年春に撮られたものだ。
末っ子の登志江さん(95)によれば、「優しくて、面白いことをいろいろ考えていた2番目の兄(龍男さん)のアイデアだった」という。戦地で留守家族を案じていた寅太郎さんは、これを見て心が安らいだだろう。
企画展示室に入ってすぐの所に、カードが展示されている(「張/女学生」のみ所在不明)。
「87年前のもの。保存状態が非常にいい。よくも残っていたものだ」と、ここで驚くのはまだ早い。
寅太郎さんと与志江さんの結婚写真。寅太郎さんが使っていた顕微鏡と医療器具。良春さんが描いたカエル解剖図やスケート靴。龍男さんの手作りカルタに金銭出納帳。良司さんの物理受講ノート……。
会場に掲げられた「(3兄弟が)生まれてからのあらゆる資料が残っています」という説明もうなずける。
3人が通った慶大ゆかりの品も多い。良春さんの制服や、龍男さん宛ての大学合格通知電報、良司さんの入学記念アルバムなどは、キャンパスライフを楽しむ若者の姿を想像させる。
しかし、平穏は続かなかった。
龍男さんは海軍軍医になった。乗艦していた潜水艦「伊182」が43年10月22日、南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、25歳で戦死した。
航空機に関心を持っていた良司さんは学徒出陣で陸軍に入り、航空隊員となった。不条理な軍の生活は、良司さんが信条としていた「自由」とはかけ離れていた。このため、上官と衝突した。
「特別操縦見習士官」時代の日誌(44年)から、その様子がうかがえる。
良司さんは教官について「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」などと記している。
階級社会の象徴のような軍隊では、異例の「上官批判」だ。
教官は「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと赤字で書き込んでいる。
特攻隊に配属された良司さんは45年5月11日、戦闘機「飛燕」で鹿児島・知覧の特攻基地から沖縄方面に飛び立ち、22歳で戦死した。出撃前夜に心の中をつづった「所感」も展示されている。
原稿用紙7枚。「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる」「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とつづり、暗に「日本必敗」を予言した。
「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」とも記している。
この遺書は、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗さんの求めに応じて書いたものだ。戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に掲載され、多くの人に読み継がれてきた。
留守家族は、陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんの帰還を信じて待っていた。復員する人たちの名前を放送するラジオに聴き入った。
だが、良春さんは終戦後の45年9月24日に戦病死していたことが後に分かる。30歳。将来を嘱望された3兄弟は、全員が戦争で命を落としたのだ。家族が、あらゆる遺品を大切に保管したのは、それだけ無念だったからだろうか。
展示資料からは、上原家の幸せな暮らしぶりが伝わってくる。それだけに、3兄弟を奪われた父母と2人の妹の悲しみを想像すると胸が痛む。
「戦争は平和な家庭をめちゃめちゃにしてしまう」。登志江さんはそう話す。
企画展「ある一家の近代と戦争」は、慶大三田キャンパス内「福沢諭吉記念 慶応義塾史展示館」で8月30日まで(10~18日、24日は休館)。入場無料。【】
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