あいうえお順で決まった命運 抑留を生き延びた台湾出身元日本兵

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自身の抑留経験などについて語る呉正男さん=横浜市磯子区の真照寺で2025年6月4日、鈴木玲子撮影 拡大
自身の抑留経験などについて語る呉正男さん=横浜市磯子区の真照寺で2025年6月4日、鈴木玲子撮影

 1947年7月、シベリアに抑留された元日本兵らを乗せた船が京都・舞鶴港に着いた。引き揚げ者2032人の中に、台湾出身元日本兵の呉正男さん(98)=横浜市=がいた。当時19歳。第二次世界大戦、さらにその後の約2年間の抑留を生き延びた呉さんが、時代に翻弄(ほんろう)された歩みを語った。

 呉さんが抑留生活で使っていた飯ごうが故郷の台湾にある。台湾出身元軍人・軍属について伝える施設「戦争と和平記念公園主題館」(台湾・高雄市)で展示され、金属製のふたに「大山正男」と刻まれている。呉さんがかつて使っていた日本名だ。

機上通信士だった呉正男さん=本人提供 拡大
機上通信士だった呉正男さん=本人提供

 爆撃機の通信士だった呉さんは45年8月、朝鮮で終戦を迎え、その後ソ連軍の捕虜になった。終戦直後の8月23日にはソ連指導者スターリンが日本人50万人を自国領などに抑留する秘密指令を発した。ソ連は旧満州(現中国東北部)などにいた日本人約60万人を抑留。寒さや飢えで約6万人が亡くなったとされる。

 呉さんがシベリア鉄道で送られた先は中央アジア・カザフ共和国(現カザフスタン)のクズロルダ収容所だった。収容所は3カ所に分かれ、記録によれば抑留者数は計約1700人。蚕棚のように2段ベッドが連なる宿舎が数棟あり、他に食堂棟があった。

 主な労働作業は運河の掘削工事だった。幅約30メートル、深さは15メートルほどあっただろうか。ひたすら掘り、土をもっこ(運搬用具)に入れ、てんびん棒で担ぐ。両肩にこぶができた。「半砂漠地帯に水力発電ダムの水路だなんて当時は想像もできなかった」。通信士だったので、電気を通すための電柱設置作業も行った。

 気温が氷点下25度になると労働が中止になる決まりがあった。ただ工事の遅れを懸念して、できる限り働かせたい労働担当と抑留者の管理担当の間で、氷点下25度になったかよくもめた。

 重労働だが、食事はわずかな黒パンとスープぐらい。記憶では黒パンは朝は150グラム、昼は200グラム。「肉や魚が出たことはなかった」。呉さんは、自分の飯ごうのふたをたたいて広げた。「少しでもふたが膨らんで一粒でも多く食事をもらえるようにした」

 食堂には、飯とスープを配る窓口があり、炊事係が抑留者の皿につぐ。「スープは最初、鍋をかき回しても濃度が薄い。戻ってくる人の皿の様子を見て、鍋底のスープが濃くなるタイミングを見計らって列に並んだ」。食事量が少ないので、スープの濃さは死活問題だ。コーリャンのかゆのような飯も、少しでも多くもらおうと右往左往した。

 野菜はジャガイモくらいで、青菜に飢えていた。半砂漠の荒野では野草はほぼ見かけない。牛やロバが排せつして湿った地面に生えた野草のアカザを見つけると、芽を摘んで食べた。

 そのため体内に回虫がわいた。ある日、回虫1匹が口から出てきたので、ペッと吐き出した。排便時に11匹も出てきたこともある。「よく腸を破らず、脳までも上っていかずに、口から出たもんだなと」

 特に困ったのが便所に紙がなかったことだ。時々配られた「日本新聞」を破いて使った。ソ連が抑留者の思想改造を目的に日本語で発行した新聞だった。

 風呂に入れるのは年に2、3回。シラミ駆除のため着ていた服は熱処理され、風呂を出た時は別の服を着る。このため便所で使う新聞紙がなくなると、皆が袖やポケットを切って便所で使った。「自分の服ではないから、袖がどんどん短くなった」

 抑留者たちの間では「ダモイ(帰国)」のうわさが絶えなかった。希望がないと生きていけない。「3カ月後に日本に帰れる」。そんなうわさが季節ごとに流れては消えた。

 呉さんは2度マラリアにかかった。高熱で意識が遠のく中、心の支えになったのが東京の下宿先の優しかったおばさんと、めいの真佐子ちゃんだった。「日本に帰ってマサちゃんに会うまでは絶対に死ねない」。自分より6歳ほど年下の少女への淡い思いが生きる気力を生んだ。

旧ソ連による呉正男さんの「登録簿」のコピー。右側に「大山正男」の名前で署名がある=横浜市内で2025年7月20日、鈴木玲子撮影 拡大
旧ソ連による呉正男さんの「登録簿」のコピー。右側に「大山正男」の名前で署名がある=横浜市内で2025年7月20日、鈴木玲子撮影

 ソ連が作成した抑留者の「登録簿」が残っている。家族構成や親の資産、軍歴など詳細な内容だ。呉さんの登録簿のコピーを見せてもらった。呉さんの帳簿番号は937。民族・日本人▽言語・日本語▽国籍・日本――などと書いてある。ソ連側の質問をロシア語が分かる日本人抑留者を介して答え、それをソ連側がロシア語で記入した。そのためか「内容は間違いだらけ」。呉さんの収容所到着日は46年8月21日と書かれているが、実際は45年10月ごろで、1年近くもずれている。

 抑留から2年近くたった47年6月、ついに帰国が決まった。列車で移動し、7月に極東のウラジオストクに着いた。ところがクズロルダの抑留者たちを見た担当者が、全員を別の場所で働かせると言い出した。他の収容所の抑留者たちより健康状態が良さそうに見えたからだ。これには移送担当が反発。あいうえお順で前半の者は帰国、後半は抑留の継続が決まった。

 「台湾出身の自分はどうなるのか」。不安がよぎったが、日本人の「大山正男」として帰国組に入った。

 やがて引き揚げ船「第一大拓丸」はウラジオストク近くのナホトカ港を出港し、7月12日に舞鶴港に到着、13日に上陸した。軍入隊時に約60キロあった体重は約41キロに減っていた。

 過酷な抑留の日々を記者に語っていた呉さんが突然、驚くような一言を発した。「私の最大の幸せは2年間の抑留だ」。一体どういう意味なのか。【鈴木玲子】

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