米国で強制収容された曽祖父の足跡 砂漠地帯を訪問、人生に思いはせ

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佐々木集寛さん(後列中央)と、次女の節子さんを抱いた妻登久子さん(同右)が渡米前に撮影した家族写真。前列左から2人目は集寛さんの母兎喜さん、その右は長女の初子さん、右端は巍さん=巍さんの孫の新井涼子さん提供
佐々木集寛さん(後列中央)と、次女の節子さんを抱いた妻登久子さん(同右)が渡米前に撮影した家族写真。前列左から2人目は集寛さんの母兎喜さん、その右は長女の初子さん、右端は巍さん=巍さんの孫の新井涼子さん提供

 太平洋戦争末期の1945年、硫黄島(東京都小笠原村)で戦死した佐々木巍(たかし)さん(享年31)の父集寛(ちかひろ)さんは戦時中、米国で強制収容された。巍さんの孫の新井涼子さん(53)は2005年ごろから足跡を調べ始める。米国立公文書館に電子メールで申請すると資料のコピーが送られてきた。多くは収容所での入院記録だったが、おぼろげだった曽祖父の姿が浮かび上がってきた。

 <全6回連載の4回目です>
 続きはこちら 若くして戦死、調べあぐねた祖父の人生

 集寛さんの両親は土佐の士族だった。父甲象(こうぞう)さんは、土佐藩主・山内家の家老で高知城築城を指揮した百々越前守安行の直系子孫で山内容堂に仕えた。その後、板垣退助らと自由民権運動に関わり、板垣が創立した政治結社の機関紙「土陽新聞」の要職に。母兎喜(とき)さんも土佐最後の家老・柴田勝守(通称備後)の娘。2人の長男として集寛さんは1886年9月に生まれた。早稲田大英文科に進み、坪内逍遥に学ぶ。両親も東京に転居、東京でも多くの不動産を保有し裕福な暮らしだったという。

 松江の松平家に仕え…

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