「死ぬのを待つしかない」 置き去りにされた障害者たち

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平和創造の森公園の一角に生える木。この付近の木の下に新屋タケさんがいとこを置き去りにしたとみられる=沖縄県糸満市で2025年7月15日午後5時24分、喜屋武真之介撮影
平和創造の森公園の一角に生える木。この付近の木の下に新屋タケさんがいとこを置き去りにしたとみられる=沖縄県糸満市で2025年7月15日午後5時24分、喜屋武真之介撮影

 20代の女性にとって、足が不自由な大人の男性を背負って逃避行するのは限界だった。

 「もうここでいいからね。下ろしてから、早く行きなさい」

 耳元でそう諭す声が聞こえ、女性はその場に男性を置いて逃げた。

 連載「戦時下ですから」は全7回のシリーズです。 
 次回は 産業戦士用「慰安所」の幻影
 13日午前11時アップです。

1カ月後、「早く出ていけ」

 1945年3月ごろ、沖縄本島最南端の喜屋武村(現糸満市)に空襲警報が鳴り響いた。

 22歳の新屋タケさんは半身不随の40代のいとこを兄と共にもっこで担いで避難させた。

 集落の住民が決めていた避難場所は自宅から約700メートル先のガマ(自然壕(ごう))だった。

 昼夜問わず続く艦砲射撃。子どもの泣き声で米軍に見つかることを恐れた住民が幼子のいるタケさんに出て行くように迫った。

 タケさんの母が幼子をおんぶしてガマを出た瞬間、砲弾に当たって2人とも亡くなった。兄も防衛隊員として召集された。

 1カ月後、日本兵がガマにやって来た。

 「ここは軍隊が使う。早く出て行け」

 タケさんは帯を巻いていとこを背負い、いつどこから砲弾が飛んでくるかわからない外に出た。

 いとこが自分を置いていくように言葉をかけてきたのは、海岸を目指して山中を1キロほど下った時だった。

 近くの木の下に置き去りにした。

 いとこはその場で撃たれて死んだ。後になってそ…

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