
1945年10月15日、戦前・戦中の思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が廃止された。命じたのはマッカーサー率いる連合国軍総司令部(GHQ)。指令の背後には、直前に発覚したある人物の死があった。
『人生論ノート』などの著作で知られる哲学者・三木清(1897~1945年)。京都大で西田幾多郎、ドイツに留学してハイデッガーに師事するなど、世界的に名高い哲学者のもとで学び、やがて独自の思想を展開したが、治安維持法違反容疑で逮捕されて東京・豊多摩刑務所の独房に勾留されると、劣悪な環境下で寄生虫感染症を患い衰弱死した。死亡日は、日本の無条件降伏からひと月半近くもたった45年9月26日。なぜ三木は敗戦後に亡くならなければならなかったのか。三木を慕う人たちからは、いまだその死を悔やむ声が聞かれる。
参政党「共産主義にとっては悪法」
「悪法だ、悪法だっていうけど、共産主義にとっては悪法でしょうね。共産主義を取り締まるためのものですから」。7月の参院選で議席を大幅に伸ばした参政党の神谷宗幣代表が、選挙期間中に鹿児島市内の街頭演説で制定100年を迎えた治安維持法に触れた。「だって彼らは皇室を天皇制と呼び、打倒して日本の国体を変えようとしていたから」とも述べたが、同法の取り締まり対象は共産主義者に限ったものではなかった。
三木は共産主義者でも、国体の変革を企てる人物でもなかった。人から頼られると断れない親切心があだとなり、命を落としたと言えるかもしれない。
45年3月に三木が逮捕された理由は、…
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