
1枚だけのプロペラ片、茶色くさびた機関砲――。
この夏、千葉県山武市の資料館で旧日本軍の戦闘機の一部が展示されている。
終戦の年に米軍機に撃墜された「疾風(はやて)」の残骸で、近くの民家で保管されてきたものを初めて公開したという。
80年前のあの日、何があったのか。関係者を訪ね歩くと、地元でも忘れかけられていた証言にたどりついた。
飛来した2000機の米軍機
「終戦から数年がたっていたけれど、私が子どもの頃はまだあの木の周りに戦闘機の破片が散らばっていた」
7月上旬、山武市の布施正実さん(75)は自宅裏の空き地の中央に立つ栗の木を指さした。
空戦があったのは1945年2月16、17日。千葉県沖から計2000機ともいう大編隊の米軍機が飛来する。
標的となったのは、本土空襲に備えるため千葉県や茨城県の各地に整備されていた飛行場だった。
南郷村(現山武市)付近の上空でも激しい戦闘があり、疾風が墜落した。
被害について86年発行の旧成東町(現山武市)の町史には「当町上空にても友軍機と空中戦を行う。友軍機数機墜落。南郷村にて10名の死傷者あり」などと記されている。
現場周辺には戦後もしばらくの間、残骸が山積みになっていた。
太平洋戦争末期には各地に戦闘機が墜落したが、朝鮮戦争(50~53年)の特需で鉄の価格が高騰すると売却されたケースもあったという。南郷村でも戦後の物資不足の中、拾い集めた機体を加工し洗面器や鍋として使っている住民もいた。
そうした中、布施さんの父力(つとむ)さん(故人)は自宅の納屋などにプロペラ片や右翼側の機関砲、主脚片、機体の内板と外板などを残し続けてきた。
布施さんがその存在に気付いたのは小学生高学年のころ。だが無口で厳格な父から話を聞く機会はないまま時は過ぎた。
10年前、父の意外な思いを垣間見る。
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