戦後80年が経過したが、資料や聞き取りなどをもとに、戦争のさまざまな側面を掘り下げる試みが続けられている。宇都宮市文化財ボランティア協議会の大塚雅之会長が「軍都」をキーワードに、近代宇都宮の成り立ちや空襲への影響などについて3回寄稿してくれた。
明治中期までの宇都宮は、江戸時代の面影を色濃く残す城下町だった。宿場町や門前町としてもにぎわっていたが、軍事的な性格はほとんどなく、「商業都市」として際立っていた。
そんな宇都宮に大きな転機が訪れる。全国的な軍備拡張の中で、市民が望んだ陸軍第14師団の誘致が決定された。軍の進出により、1907(明治40)年には数千人単位の人口増加をもたらし、地域経済も活気づいた。12(同45)年には軍が市で落としたお金が市の年間予算の約4倍に達したとも言われ、軍や兵士を相手にした商売が急増し、街はにぎわいを見せた。水道などのインフラ整備も進み、宇都宮は「商都」から「軍都」へと姿を変えていった。
他の多くの軍都と同様、宇都宮も城下町という地の利が生かされたが、第14師団の施設は市街地から約3キロ離れた市郊外(旧国本村や姿川村=現宇都宮市)に設置され、市街地の中心との空間的な分離が生じた。このため、市民と軍隊との間には「ほどよい距離感」が生じたといえる。
また、当時の師団長は市民との関係構築にも努め、正午を知らせる午砲を鳴らしたり、軍用道路沿いに桜を千本植えたりといった計らいもあり、軍は地域社会との共存を模索する存在でもあった。
40(昭和15)年、日中戦争の激化により創設以来33年間宇都宮に駐屯した第14師団は、満州(現中国東北部)へ異動していった。代わって第51師団が編成され、「動員・補充の拠点」としての軍都の性格を強めていった。またこの頃、宇都宮は工業都市化も目指していたため、郊外には次々と軍需工場が進出。42(同17)年に設立された中島飛行機宇都宮製作所はその象徴であり、都市構造そのものが軍需と結びついた「軍需産業併設型の軍都」が形成されていった。
しかし、軍隊が生活空間に隣接することで、新たな問題も生まれる。都市化の阻害、軍依存の経済、インフラ整備における自治体の過重負担などに加え、他都市では兵士と市民の摩擦も起きた。一方、宇都宮では特に大きな問題が発生することなく、軍隊との共存や信頼が継続された。
45(同20)年7月12日、宇都宮市街地は米軍の空襲により大半が焼失した。戦後、軍事施設は接収・廃止され、跡地は学校や住宅、公園などへと転用され、「軍都」の風景は都市空間からほぼ姿を消した。
それでも、「第14師団は終戦まで宇都宮にいた」と誤認する人がいるなど、軍都の記憶は今なお残っている。空襲を体験したある高齢者は「軍都だったから空襲を受けた。でも軍隊が焼け跡整理や不発弾の回収をしてくれた」と語ったが、その言葉には怒りではなく、むしろ郷愁のような感情がにじんでいた。
郊外に置かれた師団、都市と軍の空間的分離、師団長の市民への配慮。こうした要素が、宇都宮における軍の存在を「並行して存在するもの」として受け止めさせたのかもしれない。
軍隊は宇都宮に単に武力を持ち込んだのではなく、経済や都市発展を促した「近代宇都宮の伴走者」であったとも言える。戦後80年を迎えた今、軍都・宇都宮の記憶を過去のものとして片づけるのではなく、都市の成り立ちを見つめ直す手がかりとして、改めて向き合う価値があるのではないか。
Comments