
戦後80年が経過したが、資料や聞き取りなどをもとに、戦争のさまざまな側面を掘り下げる試みが続けられている。宇都宮市文化財ボランティア協議会の大塚雅之会長が「軍都」をキーワードに、近代宇都宮の成り立ちや空襲への影響などについて3回寄稿してくれた。
1945(昭和20)年7月12日深夜、栃木県宇都宮市はB-29による激しい空襲を受けた。投下された焼夷(しょうい)弾は市街地の大半を焼き尽くし、およそ4万8000人が罹災(りさい)し、620人以上が命を落とした。北関東の地方都市であった宇都宮が、なぜこのような大規模な攻撃対象となったのか。その理由を米軍の報告書から読み解いていく。
米軍による日本本土空襲は、大きく3期に分けられる。第1期(44年11月~45年3月)は軍需工場を上空8000メートル以上の高高度から精密に爆撃する段階であり、第2期(45年3~6月)は東京や大阪といった大都市への市街地焼夷弾爆撃へと移行した。そして第3期(45年6月17日以降)には、これまで攻撃を受けてこなかった中小都市が新たな標的とされた。宇都宮への空襲はこの第3期、特に人口10万人以下の「小都市」への爆撃の最初の攻撃であった。
米軍は宇都宮をどう見ていたのか。45年7月9日付の米軍資料「目標情報票『宇都宮市街地工業地域』」には、宇都宮が「京浜地域を除けば関東平野最大の都市であり、防衛網の内側に位置する」と記されている。そのうえで、軍事的に重要な中島飛行機宇都宮製作所、宇都宮陸軍飛行場、航空廠(しょう)、大砲の砲弾をつくる各和(かくわ)製作所などが集積し、軍需生産が活発に行われていると分析されていた。

また、戦争によって人口が増加しており、40(昭和15)年の8万7868人を大きく上回っていることも指摘されていた。中でも中島飛行機宇都宮製作所を、戦闘機「疾風(はやて)」の月産50機と分析し、本土防空に関わる新型機の供給において極めて重要な位置を占めると考えていた。これらの施設を破壊することで、米軍は関東の防空力や軍需供給体制に打撃を与え、日本の戦争継続能力を根本から揺さぶることを狙ったのである。
宇都宮市民の間では、空襲の原因を「軍都であったから」とする見方が長らく根強かった。たしかに当時の宇都宮には、陸軍の東部36部隊をはじめとする軍施設が集中しており、近代以降は軍事都市としての側面を強めていた。
しかし米軍の資料を読む限り、米軍は必ずしも軍の存在そのものを重視していたわけではない。それよりも、都市に集積した工業力、人口、そして戦争の継続機能の関連に着目していたことがうかがえる。
空襲作戦の指導者であったカーチス・ルメイ少将は、戦後の回想で、日本の都市構造を家内制手工業が支える「軍需工場」とみなし、人々の生活そのものが戦争に動員されていると見ていた。したがって、都市全体を焼き払うことが、日本の戦争遂行能力を破壊する最短の手段だと考えていたのだ。
米軍資料「第20航空軍作戦概要」には、空襲の目的として「軍需生産の破壊」「避難先となった地方都市の社会基盤への打撃」「国民の戦意の崩壊」が掲げられている。都市が破壊されれば、疎開した労働者や避難民の生活基盤が再び失われる。それによって日本社会そのものが精神的・物理的に疲弊し、降伏への圧力となることが期待されていた。
実際、宇都宮が空襲された同じ日に、一宮(愛知)、敦賀(福井)、宇和島(愛媛)などの小都市も同様の爆撃を受けており、これらは一連の作戦の中で宇都宮同様、戦略的に選ばれた標的であった。宇都宮空襲は単なる軍都への攻撃ではなく、日本社会の中枢機能を地方からも破壊していくという総力戦の論理に基づいた空襲だったのである。(大塚雅之・宇都宮市文化財ボランティア協議会会長)
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